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中巌円月禅師 年譜・開山忌

開山(かいさん)

開山とは 以下の意味があります
1.寺院を創建すること
2.寺院を創建した僧侶のこと
3.その他 各宗派の開祖のこと

禅宗では
寺院を創建した僧侶を
開山(かいさん)と呼び

寺院創建の資財を提供した人を
開基(かいき)・大檀那(おおだんな)
と言い分けてます


ここでは
明石の禅寺 見江山 大蔵院の開山
中巌円月禅師の年譜を紹介します

中巌円月 木造の写真
大蔵院 開山 中巌円月 禅師 木像

大蔵院 開山
中巌円月禅師


明石の禅寺 大蔵院は
室町時代に赤松祐尚公が
中巌円月禅師を勧請開山とし
創建されました

中巌円月禅師は
鎌倉~室町時代にかけて活躍された
臨済宗の僧侶で
漢文に優れ
五山文学を代表する一人です

また
数学者としても知られています

鎌倉 円覚寺の東明慧日
永平寺の義雲
南禅寺の虎関師錬などに歴参

元(げん)の国に 留学されました

建仁寺・万寿寺・建長寺など
諸寺を歴住し

上野 利根の吉祥寺や
近江の龍興寺などを開かれました

以下
中巌円月禅師の「自歴譜」を基づき
その生涯を略述します


中巌円月禅師 年譜


一三〇〇年

相模鎌倉で誕生 桓武平氏の後裔
土屋氏の一族 小名は吉祥
.
父親が西国に貶(左遷)せらる



一三〇八年

祖母により鎌倉扇谷の寿福寺へ送られ
僧童となる
至道と名付けられる



一三一三年

梢山律師に礼し 剃髪
密教を学ぶ



一三一四年

鎌倉の円覚寺に掛塔
東明慧日(とうみんえにち)和尚を
受業の師と仰ぐ

東明慧日和尚は
鎌倉幕府第9代執権 北条貞時公の招請により来日した曹洞宗宏智派の渡来僧

鎌倉の円覚寺 万寿寺
建長寺などに住し
鎌倉禅林の隆盛に尽力した

今も円覚寺に残る白雲庵
東明慧日和尚の塔所



一三一七年

江南に渡ろうと博多へ行くが
許されず戻る



一三一九年

永平寺の義雲和尚に参じる



一三二一年

親友の不聞契聞和尚と共に上京
堤正具和尚に会おうとするが会えず

南禅寺に宿を借り 白河の済北庵で
元亨釈書を記した
虎関師錬(こかんしれん)和尚と会う



一三二四年

元(げん)に渡るため九州に下る
この時 大友 貞宗公を知る

大友 貞宗公は 大友氏の六代目
相模国 大友郷を本拠としていた
大友能直公が 源頼朝公の側近となり
豊後(大分県)守護に出世した
以来、大友一族が豊後守護職を世襲

南北朝時代には
足利氏に属して領土を広め
九州の有力な守護大名として君臨した

この後
大友家六代貞宗公・七代氏泰公は
中巌円月禅師に帰依した


元行きの船を待つ間
博多と豊後(大友家の領地)を
行き来して過ごした

豊後(大分県)の 蔣山 万寿寺で
闡提 正具和尚に相見した



一三二五年 九月

親友である不聞契聞和尚らと共に
元(中国)に渡る

霊石如芝(りんせきにょし)和尚
古林清茂(くりんせいむ)和尚

龍巌徳真(ろうがんとくしん)和尚
竺田悟心(じくでんごしん)和尚など
元の高僧を遍参する

龍山徳見(りゅうさんとくけん)和尚
東陵永璵(とうりょう ようよ)和尚
 雪村友梅(せっそんゆうばい)和尚等
日本人留学僧とも交流を持った



一三二九年

古林清茂和尚に参じる
書紀を請われたが辞退した

百丈山に向かい
百丈下 第十八世東陽徳輝和尚の
会下に参じる

東陽徳渾和尚は
大慧宗果和尚の法脈に続く
臨済宗大慧派の僧



一三三〇年

夏 書記に抜擢され 認可を得る

百丈山を離れ
東陽徳渾の故郷 金華の智者寺で過ごす



一三三二年 夏
一峰通玄和尚と共に 帰国

博多の顕孝寺に寄宿
豊後の万寿寺に移る



一三三三年

鎌倉幕府が滅ぶ

大友貞宗公
共に上京
南禅寺の明極楚俊和尚の会下に在す

後醍醐天皇に
「原民」「原僧」を上奏


大友貞宗公が急死



一三三四年

鎌倉 円覚寺に帰る
『中正子』十篇を執筆

東明慧日和尚から
後版について請われるが固辞

下野の宇都宮
常陸の鹿島
陸奥の相馬などに住す



一三三七年

建長寺に帰る
大友貞宗の子で大友家七代目当主の
大友氏泰に請われ
鎌倉 藤谷の崇福庵:藤谷山 崇福
に住す
竺仙梵僊和尚と旧交を交わす



一三三八年

(大友氏の領地)利根の庄に下る



一三三九年 春
東明慧日の願いを叶えるべく上京
夢窓疎石国師や
足利直義公などに働きかける


大友氏泰が 上野国(群馬県)の利根に 吉祥寺(きちじょうじ)を開く

中巌円月和尚は 初代住持に請れる
青龍山 吉祥寺

六代貞宗公の追善供養と
吉祥寺の開山法要が併せて行われる

この法要で
東陽徳渾の法を嗣ぐことを表明

受業の師を継ぐことが
常識とされていたため
白雲庵 東明慧日和尚の徒から怨まれる

鎌倉て 東明の徒から迫害を受ける
親友不聞契聞和尚が不在だったが
別源 円旨和尚・東白円曙和尚に
助けられる

以後 東明の徒の影響から
官寺に住することが出来なくなる

鎌倉藤谷の崇福庵
上野利根の吉祥寺
行き来して日を過ごす



一三四〇年

鎌倉 藤谷の崇福庵に蟄居
『些細集』を執筆



一三四一年

鎌倉 藤谷の崇福庵に蟄居
『日本書』を執筆

この間
僧堂の創設・上京が記録にある



一三四九年

鎌倉 寿福寺の全堤志令和尚に
請われ 住す



一三五二年

後光厳天皇
上野利根の吉祥寺を御願寺に指名する



一三五三年

吉祥寺が
諸山(五山制度に基づく寺格)にせられた

鎌倉の乾明山 万寿寺に住す

鎌倉の乾明山 万寿寺を謝し
豊後の万寿寺へ赴く



一三五四年

豊後の万寿寺を謝し
利根の吉祥寺へ帰る



一三五六年

天龍寺に宿を借りる



一三五七年

伏見殿で 光明法皇に拝謁し
『大慧普説 』を講ず

利根の吉祥寺へ帰る



一三五八年

上京する



一三五九年

勅命(?)を受け
京都 万寿寺(京都五山)に入る
『勅修百丈清規』を講ず



一三六〇年

『楞厳経』を講ず
『嘉泰普燈録』を談ず

京都 万寿寺の東北の隅に
妙喜世界(塔頭) を建てる



一三六一年

京都 万寿寺を謝す
利根の吉祥寺へ帰る

相馬の立沢寺で年を越す



一三六二年
書紀が
幕府の御教書を持ってきたので上京し
建仁寺へ入る

後光厳天皇に召見される

妙喜世界を 建仁寺へ移す

僧堂にて射られた
そのため、建仁寺を退き
近江の金剛寺に下る



一三六三年

京都の等持寺(現在 廃寺)に住す

妙喜世界に帰隠(隠棲)し門を閉ざす



一三六四年

佐々木道誉公に請われ
近江の杣庄(そまのしょう:甲賀市)に
龍興寺を創建



一三六五年

龍興寺にて
結制(けっせい:一夏安居の行)を行う

近江の龍興寺
京都の妙喜世界を行き来する



一三六七年

建長寺から請われ 入る



一三六八年

建長寺を謝し 帰京


一三七二年

讃岐の禅修寺に請われ赴く
『一切経』を供養し 説法する



一三七四年

佐々木道誉公が亡くなったため
公の菩提寺である甲良の勝楽寺に向かう



一三七五年

正月八日 示寂

全身を奉じ
東山 妙喜世界の後に塔す
この日 天は大雪を降らす

二月
朝廷から 仏種恵済禅師と諡を賜る
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開山忌

開山忌
寺院を創建した僧侶が亡くなった
祥月命日(しょうつきめいにち)に
行われる法要です
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大蔵院 開山忌

明石の禅寺 見江山 大蔵院の開山忌は
中巌円月の祥月命日である
正月の八日に行われます

以前は、旧暦でしたが
現在は新暦で行われています
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また この日は 正月に近いため
大般若法要と併せて行われています
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そのため
まず 開山忌法要を行い
中巌円月禅師と歴代住職を供養します
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その後
大般若法要を行います
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大般若法要では
住職が導師となり理趣分を唱え
拝請した近隣寺院のご住職方による
大般若経の転読が行われます
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この法要では
般若札という御札を祈祷しています
そして
この般若札は 後日
檀家の皆様に 配布しています

本堂内 法要



般若心経
大悲呪
昔の本堂の様子と 新本堂を再建する様子

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