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由緒

中巌円月 木造の写真

開山

当院は 山号を見江山(けんこうざん)
寺名を大蔵院(だいぞういん)と称します

播磨の国(兵庫県)、明石の大蔵(おおくら)という地で 約600年続く臨済宗南禅寺派の禅寺です

明石(赤石)は古くからある地名で 古事記や日本書紀では明石国として登場します

大蔵(大倉)という地名も 日本最古の地誌書”風土記 播磨”に登場します

また 世界最古の長編小説”源氏物語”には明石を舞台とする”明石の巻”があります

世界的に見れば ロンドン郊外にある世界の時間基準 グリニッジ天文台の子午線から東へ135度の位置に明石があり

大蔵院から日本標準子午線までは約500mの距離です


大蔵院の由来は 室町時代にあります

播磨・備前・美作国守護で 室町幕府の侍所所司の赤松満祐公
その弟である 赤松祐尚(すけなお)公が、中巌円月(ちゅうがんえんげつ)禅師を勧請開山したことが寺の始まりです


大蔵院の開山 中巌円月禅師について紹介します

中巌円月禅師は
鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍された 臨済宗大慧(だいえ)派の禅師です

正安二年(西暦1300年)
相模国の鎌倉にてお生まれになり
永和元年(西暦1375年)に
京都にて示寂されました

俗姓は 土屋氏 
道号(悟りし者に与えられる称号)は
中巌(ちゅうがん)

諱(生前の実名)は
円月(えんげつ)

諡号( 生前の徳などに基き 贈られる称号 )は
仏種慧済(ぶっしゅえさい)禅師

中国語を習得された後、元の国(現在の中国)に留学、東明慧日(とうみょうえにち)禅師や虎関師練(こかんしれん)禅師の元で学ばれる中で、東陽徳輝(とうようてひ)禅師の法を嗣がれました

日本には、禅の流派が二十四あるとされていますが
中巌禅師は
帰国後、「中巌派」という一つの流派を創始されました

この時代は
鎌倉や京都の五山を中心とした禅僧たちによる
漢文学が盛んな時でもありました(五山文学)

宋学や数学にも大変知識が深い中巌円月禅師は
この五山文学を代表する一人とされています


万寿寺、建仁寺、等持寺、建長寺などを歴住し
後醍醐天皇や足利将軍家とも交流されました

主な著書としては
「東海一漚集」「中厳和尚語録」などがあります

この両著については
当院の第八世 大解宗脱(だいげそうだつ)和尚と第九世 秀峰宗逸(しゅうほうそういつ)和尚の尽力により、大蔵院版(木版)が残っています

開基

禅宗では
寺院創建に資財を提供した方を 開基と呼びます

大蔵院の開基は
赤松満祐公の弟 赤松祐尚(すけなお)公です

添付している写真は
大蔵院にある 赤松祐尚公ご夫妻の墓です

赤松満祐公は 嘉吉(かきつ)の乱で有名ですが
祐尚公は兄ほど有名でなく、資料も多くありません


大蔵院に残る記録で
赤松祐尚公を紹介します


大蔵院 第8世 大解宗脱和尚が記した
「見江山大蔵禅院歴世紀事」の抜粋

草創檀越である赤松常陸介祐尚は
播磨守赤松義則の第四子であり
播磨河東郡河合城に住んでいた

(中略)

嘉吉元年辛酉(1441年)5月6日卒す
寿69歳
祐尚の法名は、
見江院殿 道元性観

夫人の忌日は 不明である
夫人の法名は、
大蔵院殿 梅巌芳公


赤松則村(次郎、入道円心)は
則祐(律師明善)を生み

則祐は
義則(上総介播磨守正二位、播磨備前美作三国の守護たり)を生み

義則は
満祐(左京大夫、入道性具。摂津播磨備前美作因幡の五州の守護たり)義資(播磨守従三位)満政(和歌に長じ、書を善くす)祐尚(常陸介)祐次(孫二郎)僧明秀(南紀総持の開山)を生む

祐尚は
則尚(彦五郎、満祐の党。康正元年<1445年>5月12日、自ら備前児島にて自害す。年32。法名長入)を生む

祐尚のここ大蔵院を創建する理由は判っていない



大蔵院「過去帳」抜粋

赤松祐尚の法名は
見江院殿 前常州太守 道元性観大居士

その奥方の法名は
大蔵院殿 梅巌芳公 大禅定尼

嘉吉元年辛酉(1441年)5月6日。赤松祐尚
示寂 行年69歳

以上が、大蔵院の開創についての記録になります




歴代住職について

大蔵院に残る記録には
開創から約260年間が失われています

そのため
記録が残る天翁慶祐座元禅師を 大蔵院第2世としています

天翁慶祐座元禅師から、現在の住職までの歴代住職については
当サイトの「寺の日記」の中にある
「大蔵院来歴」という記事にまとめてあります

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