十夜法要
【十夜法要とは】
正式には 十日十夜法要 と言います
十夜法要。十夜談義。十夜法事。十日十夜。十夜。
などなど 色んな呼び方があります
お十夜は
日本独自の法要で
初冬の季語 でもあります
古くは
十日十夜にわたって 念仏を唱え続ける法要でしたが
現在では
ほとんどのお寺で期間が短縮されて 行われています
【十夜法要の由来】
十夜法要の由来は
室町時代の出来事です
時は、永享年間(1430年頃)
室町幕府 6代将軍・足利義教公の時代
室町幕府の政所執事を家督とする 伊勢平氏の家に
伊勢守平貞国(たいらのさだくに)という 人物がいました
ある時
伊勢守平貞国は 世を儚み
出家しようと決意しました
三日三夜の念仏を唱えて
満願の暁に
出家しようと 決意して
真如堂(京都市左京区)に籠りました
三日目の夜
貞国の夢枕に僧が現れ こう告げました
阿弥陀さまの信仰心が本物なら、出家は関係ない
出家は待ちなさい
お告げを聴いた貞国公は
出家を思い留まり 帰宅すると
家督をついでいた兄の伊勢守平貞行が
足利義教将軍の勘気を蒙り
謹慎処分を言い渡され
吉野へと追放されていました
更に
家督の政所執事は
弟の貞国公が継ぐよう
命令が下されていました
貞国公は その後
更に七日七夜 真如堂に籠り
念仏を唱えられました
この三日三晩と 七日七晩を合わせたのが
日本で始めての 十日十夜法要となりました
時代がくだった明応4(1495)年
後土御門天皇と
鎌倉の光明寺の祐崇上人のこ゚縁から
十夜法要が
浄土宗でも行われるようになり
浄土宗の各寺に広まりました
【大蔵院とお十夜】
家督を継いだ
伊勢守平貞国公は
足利義教将軍から信を得て
義教公の長男で 7代目将軍となる
義勝公が生まれると 預かりました
義勝公は 元服するまで
貞国公の屋敷で養育されました
嘉吉元(1441)年 6月
第六代将軍 足利義教公は
播磨国守護 赤松満祐公によって
暗殺される事件がおこりました
(嘉吉の乱)
同年 9月
幕府軍の追討を受け 赤松家は滅亡しました
明石の禅寺 大蔵院は
嘉吉の乱を引き起こした赤松満祐公の弟
赤松祐尚公の寄進により創建されたため
大蔵院では
赤松祐尚公を 開基として祀っています
この赤松祐尚公は
嘉吉の乱の直前に 亡くなっていたようで
嘉吉の乱とは関係がありません
ただし
祐尚公の息子 赤松則尚公は
生き延びて
幕府から追われていました
窮地に陥った 赤松則尚公を
保護してくれる人々が現れます
その中の一人こそ
政所執事 伊勢守平貞国公でした
文安5年(1448年)
政所執事 伊勢守平貞国公は
阿波守護の 細川持常と共に
赤松則尚公の復帰を取り次いだため
則尚公は 赦免され
幕府へ出仕するようになりました
昭和の中頃 ある日
檀家さんの とある老婦人から
お十夜法要を行ってほしいと依頼があり
禅寺 大蔵院でも
お十夜法要が行われるようになりました
そのため
十夜法要の歴史は浅いのですが
上記のような
伊勢守平貞国公と
大蔵院開基
赤松祐尚公の息子の則尚公との
関わりを思う度
なにかしらの ご縁を感じます
伊勢守平貞国公には
もう一つ 有名な事があります
それは 貞国公の娘の子
つまり お孫さんです
その名を 伊勢新九郎と言います
北条早雲の名で有名です
戦国の世を切り開き
戦国時代に関東を支配した
後北条氏の始祖は
貞国公のお孫さんです