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金剛般若経 全文 現代語訳


こんごうはんにゃはらみつきょう
金剛般若波羅蜜経


金剛般若波羅蜜経は
大乗仏教が成立した紀元前後に
成立したものと推測されるお経で

数ある大乗経典の中でも
古い分類に分けれられます


サンスクリット原本の
ローマ字表記は
  Vajra cchedikā-prajñāpāramitā Sūtra

Vajraは金剛
ダイヤモンド、最剛、堅固

cchedikāは能断
能く断つ

prajñāは般若
 全ての事物や道理を明らかに見抜く
深い智慧

pāramitāは波羅蜜
涅槃の境地に達すること
(または完全性)

Sūtraは経典
お釈迦様の教えを記した聖典

まとめると
ダイヤモンドのような堅固さで
煩悩を能く断ち
彼岸に渡る(完全性を得る)ための
智慧を記した経典
という意味になります


金剛般若波羅蜜経
その長さから 三百頌般若経とも呼ばれる他
金剛般若経・金剛般若・金剛経
などと略して呼ばることもあります


※記載順
以下の通りに記載しています
1.ひらがな:臨済宗の読み方
2.漢文:鳩摩羅什訳
3.書き下し文
4.現代語訳

※現代語訳について
漢文に相当するよう配置してますが
鳩摩羅什が訳された
漢文を訳したモノではありません
サンスクリット語の日本語(意)訳です

※三十二の章立てについて
読みやすさを考慮して
漢訳にある
三十二の章立てを利用しています

※参考書籍について
般若経典 (現代語訳大乗仏典)
中村 元
般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)
中村 元, 紀野 一義
現代語に意訳する際に 両二冊を
参考にさせて頂きました





金剛般若経




にょぜ がもん
如是 我聞

是くの如く 我れ聞けり

私が聞いたところによると







いちじ ぶつざい しゃえこく
一時 佛在 舍衞國
ぎじゅぎっ こどくおん
祇樹給 孤獨園
よ だい びく しゅ
與 大 比丘 衆
せんにひゃくごじう にん ぐ
千二百五十 人 倶

一時 仏は舍衞国の
祇樹給孤獨園
大いなる比丘
千二百五十人と倶に在(い)たり

ある時 師(お釈迦様)は
コーサラ国の都
シュラーバスティー
ジュータの園林にある
孤独な人に 食事を提供する
長者の園
祇園
1250人もの僧・大勢の人達と
滞在されていた






にじ せそん じきじ ぢゃくえ ぢはつ
爾時 世尊 食時 著衣 持鉢
にゅう しゃえいだいじょう こつじき
入 舍衞大城 乞食
お ごじょうちゅう しだい こっち
於 其城中 次第 乞已

その時 世尊は 食時に 衣を著け鉢を持し
舍衞大城に入り 食を乞う
その城中において次第に乞い已(おわ)り

さて 師は朝のうちに
下衣・上衣をつけ 鉢を取ると
シュラーバスティー大市街に入り
食糧を乞い
托鉢され) 歩かれた





げんし ほんじょ ぼんじき こっ
還至 本處 飯食 訖
しゅう えはつ せんぞく い
收 衣鉢 洗足 已
ふざ にざ
敷座 而坐

本処に還り至り 飯を食し訖(お)え
衣鉢を収め 足を洗い已(おわ)り
座を敷き坐し給えり

食事を終えると
托鉢から帰り
鉢と上衣とを片付け 両足を洗われた

そして
設けられた座に
両足を組んで 坐ると
身体を真っ直ぐに正され
精神を集中された


その時
多くの修行僧たちは
師に近づき
師の両足に 頭を付け 拝むと

師の周りを
右回りに三度回り右遶三匝
師の周辺に 坐った










じ ちょうろう しゅぼだい
時 長老 須菩提
ざい だいしゅう ちゅう
在 大衆 中

時に長老菩提
大衆の中に在り

ちょうど その時
スブーティ
(梵Subhūti)長老もまた
同じ集まりに来ていて 坐っていた






そくじゅう ざき
即從 座起

即座に 座より起ち

スプーティ長老は

座っていた場所から起ちあがると





へんだん うけん
偏袒 右肩
うしつ ぢゃくぢ
右膝 著地

ひとえに 右の肩を袒(はだぬ)ぎ
偏袒右肩
右の膝を 地につけ

上衣を片方の肩に掛け
右の膝を地につけた





がっしょう くぎょう
合掌 恭敬
 にびゃく ぶつごん
而白 佛言

合掌恭敬
仏に白(もう)して言わく

そして
師に合掌し
次のように言った





け  せそん
希有 世尊

稀有なり 世尊

師よ 素晴らしいことです
幸ある人よ
まったく素晴らしいことです






にょらい ぜん ごねん しょ ぼさつ
如来 善 護念 諸 菩薩

如来は 善く諸々菩薩護念

如来・尊敬されるべき人・正しく目覚めた人により
求道者・すぐれた人が
至上の恵みに包まれているコトは
素晴らしいコトです






ぜん ふぞく しょ ぼさっ
善 付囑 諸 菩薩

善く 諸々の菩薩に 付囑したまう

如来・尊敬されるべき人・正しく目覚めた人により
求道者・すぐれた人へ
至上の委嘱
(人へ任せること)
が与えられているコトは
素晴らしいコトです






せそん
世尊
ぜんなんし ぜんにょにん
善男子 善女人
ほつ

あのくたらさんみゃくさんぼだい しん
阿耨多羅三藐三菩提 心

世尊よ
善男子・善女人が
阿耨多羅三藐三菩提の心を
発するに

ところで 師よ
求道者の道に向かっている
立派な若者や立派な娘は






うんが おうぢゅう
云何 應住

まさに いかんが
住すべきや

どのように

生活・行動すべきでしょうか





うんが ごうぶく ごしん
云何 降伏 其心

いかんが
其の心を降伏すべきや

どのように
心を保てば良いでしょうか





ぶつごん
佛言
ぜんざい ぜんざい しゅぼだい
善哉 善哉 須菩提

仏は言いたもう
善いかな 善いかな 須菩提よ

このように説かれた時
師はスブーティ長老に向かい
次のように答えられた
まことに まことに スプーティよ






にょ にょ しょせつ
如 汝 所説

汝の説くところの如く

あなたの言うとおりだ





にょらい ぜんごねん しょぼさっ
如来 善護念 諸菩薩

如来は 善く諸々の菩薩を 護念し

如来は
求道者・すぐれた人を
至上の恵みで包み






ぜんふぞく しょぼさっ
善付囑 諸菩薩

善く諸々の菩薩に 付囑す

如来は
求道者・すぐれた人に
至上の委嘱
(人へ任せること)
を与えている






にょこん たいちょう
汝今 諦聽

汝は今 諦(あきら)かに聴け

だから スプーティよ
よく聞き
よくよく考えるがよい






とう いにょ せつ
當 爲汝 説

まさに 汝が為に 説くべし

あなたに話して聞かせよう





ぜんなんし ぜんにょにん
善男子 善女人
ほつ

あのくたらさんみゃくさんぼだい しん
阿耨多羅三藐三菩提 心

善男子 善女人が
阿耨多羅三藐三菩提の心を
発するに

求道者の道に向かう者は





おう にょぜ ぢゅう
應 如是 住

まさに かくの如く 住し

どのように
生活・行動したらよいかを





にょぜ ごうぶく ごしん
如是 降伏 其心

かくの如く
その心を 降伏すべし

どのように
心を保つべきかを





ゆいねん せそん
唯然 世尊
がんぎょう よくもん
願樂 欲聞

いい しかり 世尊よ
願わくは 聞かんと欲す

スプーティ長老は 師に向かい答えた
師よ そうして下さいますよう












ぶつごう しゅぼだい
佛告 須菩提

仏は 須菩提に告げたもう

師は このように話し始めた
スブーティ






しょ ぼさっ まかさっ
諸 菩薩 摩訶薩
おう にょぜ ごうぶく ごしん
應 如是 降伏 其心

諸々の菩薩 摩訶薩は
まさに寔くの如く その心を降伏すべし

ここに 求道者の道に向かう者は
次のような心を起こさなければならない
すなわち スプーティよ






しょう いっさい しゅじょう しるい
所有 一切 衆生 之類

「 あらゆる 一切の 衆生の類(たぐい)

「 生きモノの仲間に含められる限りの
生きとし生けるモノ





にゃくらんしょう にゃくたいしょう
若卵生 若胎生

もしくは卵生 もしくは胎生

卵から生まれたモノ
母胎から生まれたモノ






にゃくしっしょう にゃくけしょう
若濕生 若化生

もしくは湿生 もしくは化生

湿気から生まれたモノ
(他から生まれずに)
みずから 生まれ出たモノ






にゃくうしき にゃくむしき
若有色 若無色

もしくは有色 もしくは無色

形が有るモノ
形が無いモノ





にゃくうそう にゃくむそう
若有想 若無想

もしくは有想 もしくは無想

表象作用が有るモノ
表象作用が無いモノ





にゃくひ うそう にゃくひ むそう
若非 有想 若非 無想

もしくは非有想 もしくは非無想

表象作用が
有るモノでも無く
無いモノでも無いモノ
その他
生きモノの仲間として
考えられる限りの
生きとし生けるモノども





がかい りょうにゅう むよ ねはん
我皆 令入 無餘 涅槃
に めつど し
而 滅度 之

我れは皆 無餘涅槃に入れ
之を滅度せしむ

私は
それらの ありとあらゆるモノを
悩みがなく 永遠に平安な境地に
導き入れなければならない






にょぜ めつど
如是 滅度
むりょう むしゅ むへん しゅじょう
無量 無數
無邊 衆生

是くの如く
無量 無数 無辺の衆生を
滅度せしめども

しかし
このように
無量の生きとし行けるモノを
永遠の平安の境地に
導き入れたとしても






じつむ しゅじょう とく めつど しゃ
實無 衆生 得 滅度 者


実には 衆生を滅度し得る者無し 」と

実は 誰一人として
永遠の平安の境地に
 導き入れられたモノなど無い 」

と このような心を
起こさなければならない






がいこ しゅぼだい
何以故 須菩提

何を以っての故に 須菩提よ

それは何故かというと
スブーティ






にゃく ぼさっ う
若 菩薩 有
がそう にんそう
我相 人相
しゅじょうそう じゅしゃそう
衆生相 壽者相

もし菩薩に
我相 人相
衆生相 寿者相
有らば

誰であれ
自我があるという想い
他人があるという想い
生命があるという想い
霊魂があるという想い
などの想いを 起こすモノは






そくひ ぼさっ
即非 菩薩

すなわち 菩薩に 非ざればなり

もうすでに
求道者であるとは 言えないからだ








ぶじ しゅぼだい
復次 須菩提

復た次に 須菩提よ

ところで また スブーティ






ぼさつ おほう
菩薩 於法
おう む しょじゅう
應 無 所住
ぎょうお ふせ
行於 布施

菩薩は 法に於いて
応に 住する所なくして
布施を行ずべし

求道者は
モノにとらわれて 施しをしてはならないし
何かにとらわれて 施しをしてはならない






しょい ふぢゅう しき ふせ
所謂 不住 色 布施

いわゆる 色に住せずして 布施し

形にとらわれて 施しをしてはならない





ふぢゅう しょう こう み そく ほう ふせ
不住 聲 香 味 觸 法 布施


声 香 味 触 法に住せずして 布施するなり

声や 香りや 味や 触れられるモノ
心の対象に とらわれて
施しをしてはならない






しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

このように スブーティ






ぼさっ おう にょぜ ふせ
菩薩 應 如是 布施
ふぢゅう おそう
不住 於相

菩薩はまさに 是くの如く布施し
相に於いて住せざるべし

求道者・すぐれた人は
事跡を残したいという想いに
とらわれないようにして
施しをしなければならない



三輪 清浄(さんりん しょうじょう)の理

布施が行われる際は

与える・受ける・布施される
三者(三輪)いづれもが
あらゆる執着を離れて行うべきである
 という布施の心構え
三輪空寂三輪体空三事皆空





がいこ
何以故


何を以っての故に

それは何故かというと
スプーティよ






にゃく ぼさつ
若 菩薩

ふぢゅう そう ふせ
不住 相 布施

もし菩薩
相に住せずして布施せば

もし求道者が
とらわれるコトなく 施しをするのなら





ご ふくとく
其 福徳

ふかし りょう
不可思 量

其の福徳は
思量すべからざればなり

その功徳は 積み重なり
いとも簡単に
計り知れない程になるからだ





しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何


須菩提よ 意において いかに

スブーティよ どう思う






とうぼう こくう か しりょう ふ
東方 虚空 可 思量 不


東方の虚空は 思量すべきや いなや

東の方角の 虚空の量は
手軽に 知ることが出来るだろうか






ほっちゃ せそん
不也 世尊

いななり 世尊

スプーティは答えた
師よ 計り知ることは出来ません






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

師は言われた
スブーティよ






なんざい ほつぽう しゆい じょうげ こくう
南西 北方 四維
上下 虚空
か しりょう ふ
可 思量 不

南西北方 四維 上下の虚空は
思量すべきや いなや

同じように
南や西や北や 上下の方角など
全ての方向の 虚空の量は
手軽に 計り知ることが出来るだろうか






ほっちゃ せそん
不也 世尊


いななり 世尊

スプーティは答えた
師よ 計り知ることは出来ません




しゅぼだい
須菩提

須菩提よ


師は言われた
スブーティよ





ぼさっ むぢゅう そう ふせ ふくとく
菩薩 無住 相 布施 福徳
やくぶ にょぜ ふか しりょう
亦復 如是 不可 思量

菩薩の相に住すること無き布施の福徳も
またまた 是くの如く 思量 すべからず

これと同じで
もし求道者が
とらわれるコトなく 施しを行うのなら
その功徳は 積み重なり
いとも簡単に 計り知れない程の 量になる






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

実に スブーティ





ぼさっ たんおう
菩薩 但應
にょ しょきょう ぢゅう
如 所教 住

菩薩は ただまさに
教ふる所の如く 住すべし

求道者の道に向かうモノは
このように
“事跡を残したい”という
想いに とらわれないようにして
施しを行わなければならない











しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何

須菩提よ 意において いかに

スブーティよ どう思う






かい しんそう けん にょらい ふ
可以 身相 見 如來 不


身相を以って 如来を見るべきや いなや

如来は
仏にのみ存在するという
三十二の身体的な特徴を

備えたモノだと
見るべきだろうか






ほっちゃ せそん
不也 世尊

いななり 世尊よ

師よ
そう見るべきではありません





ふか い しんそう
不可 以 身相

とく けん にょらい
得 見 如來

身相を以て
来を見る事を 得べからず

如来を
仏にのみ存在するという
三十二の身体的な特徴を備えたモノと
見てはなりません





がいこ
何以故


何を以っての故に

それは何故かというと
師よ






にょらい しょせつ
如來 所説
しんそう そく ひ しんそう
身相 即 非 身相

如来の説きたまえるところの
身相 すなわち 身相 非ざればなり

「 特徴を備えているということは
特徴を備えていないことである 」
と 如来がおっしゃったからです





ぶつごう しゅぼだい
佛告 須菩提


仏は 須菩提に告げたもう

このように答えられた時
師は スブーティ長老に向かって
次のように言われた






ぼんしょ
凡所

うそう かいぜ こもう
有相 皆是 虚妄

およそ
あらゆる相は 皆な是れ 虚妄なり

スプーティよ
“特徴を備えている”と言えば
それは偽りであり
“特徴を備えていない”と言えば
それは偽りではない






にゃくけん しょそう ひそう
若見 諸相 非相
そくけん にょらい
即見 如來

もし 諸相は相に非ずと見るときは
すなわち 如来を見る

だから
”特徴が有ると言う事” と ”特徴が無いと言う事”
その両方から
如来を見なければならないのだ










しゅぼだい びゃくぶつごん 
須菩提 白佛言

須菩提は 佛に白(もう)して言わく

このように言われた時
スブーティ長老は
師に向かって 次のように訊ねた





せそん
世尊
はう しゅじょう とくもん
有 衆生 得聞
にょぜ ごんぜつ しょうく
如是 言説 章句
しょう じっしん ふ
生 實信 不

世尊よ
すこぶる衆生の有りて
かくの如き 言説章句を聞き得て
実信を生ずるや いなや

師よ
これから先 後の時世になり
第二の五百年代の 正しい教えが滅びる頃に
このような経典の言葉が
説かれたとしても
それを真実だと思う人が
誰か居るでしょうか






ぶつごう しゅぼだい
佛告 須菩提

仏は 須菩提に 告げたもう

師は 答えられた
スブーティ






まくさ ぜせつ
莫作 是説

是の説を作(な)すこと 莫(なか)れ

貴方は その様に言ってはならない





にょらい めつご ご ごひゃくさい
如來 滅後 後 五百歳

如来の滅後 後の五百歳に

これから先
後の五百年代の 正しい教えが滅びる頃に






う ぢかい しゅうふくしゃ
有 持戒 修福者
お ししょうく のうしょう しんじん
於 此章句 能生 信心
いし いじつ
以此 爲實

戒を持し 福を修むる者 有りて
此の章句において 能く信心を生じ
これを実なりと為さん

このような経典の言葉が説かれる時
それが真実だと思う人々が
誰か居るに違いない
スプーティよ

また これから先 後の時世になり
第二の五百年代の
正しい教えが滅びる頃でも
徳高く 戒律を守る
智慧深い求道者・すぐれた人は
このような経典の言葉が説かれる時
これは真実であると思うに違いない






とうち ぜにん
當知 是人
ふお
不於
いちぶつ にぶつ さんしご ぶつ
一佛 二佛 三四五佛
にしゅ ぜんごん
而種 善根

まさに知るべし この人は
一仏 二仏 三四五仏に 於いて
善根を植えし のみならず

スプーティよ
彼ら求道者・すぐれた人々は
ある一人の目覚めた人(仏陀)に
近づき 帰依し
ある一人の目覚めた人(仏陀)のもとで
善い根を植えたりしただけでは無いのだ





いお むりょう せんまん ぶっしょ
已於 無量 千萬 佛所
しゅ しょ ぜんごん
種 諸 善根

すでに無量千萬の仏の所に於いて
諸々の善根を 種(う)え

何十万という多くの

目覚めた人々(諸仏)に近づき 帰依し
何十万という
多くの目覚めた人々(諸仏)のもとで
善い根を植えた人々であるのだ





もんぜ しょうく ないし
聞是 章句 乃至
いちねん しょう じょうしん じゃ
一念 生 淨信 者

この章句を聞きて 乃至
一念に 浄信を生じる 者なることを

だから
このような経典の言葉が説かれる時には
一途に 清らかな信仰を得るに違いないのだ






しゅぼだい
須菩提
にょらい しっち しっけん
如來 悉知 悉見
ぜ しょ しゅじょう とく
是 諸 衆生 得
にょぜ むりょう ふくとく
如是 無量 福徳

須菩提よ
如来は
是の諸々の衆生の
是くの如き 無量の福徳を 得んことを
悉く知り 悉く見るなり

スプーティよ
如来は 目覚めた人の智慧で
知っているし
見ているし
悟っている
スプーティよ
彼らは全て
計り知れない程の
数え切れない程の
功徳を積んで
自分のものとするに 違いないのだ





がいこ
何以故


何を以ての故に

それは何故かというと
スプーティよ




ぜ しょ しゅじょう む ぶ
是 諸 衆生 無 復
がそう にんそう
我相 人相
しゅじょうそう じゅしゃそう
衆生相 壽者相

この諸々の衆生には 復た
我相・人相・衆生相・寿者相 無く

実にこれらの求道者・すぐれた人々には
自我がある という想いが起こらない
他人がある という想いも
生命がある という想いも
霊魂がある という想いも
起こらないからだ
また スプーティよ






む ほうそう やく む ひ ほうそう
無 法相 亦 無 非 法相


法相も無く 亦た 非法相も 無ければなり

これらの求道者・すぐれた人々には
”モノという想い” も
起こらないし
”モノでないモノという想い”も
起こらない
彼らには
”思う”ということも
”思わない”ということも
起こらないからだ





がいこ
何以故

何を以ての故に

それは何故かというと
スプーティよ





ぜ しょ しゅじょう
是 諸 衆生


是の諸々の衆生が

もし彼ら求道者・すぐれた人々に




にゃく しん しゅ そう
若 心 取 相
そく いぢゃく
即 爲著
が にん しゅじょう じゅしゃ
我 人 衆生 壽者

もし 心に相を取るときは
すなわち
我・人・衆生・寿者に
著(じゃく)せられ

「想い」が起こるというのなら
彼らには
自我に対する執着が あるのだろう
他人に対する執着や
生命に対する執着や
霊魂に対する執着が
あるのだろう





にゃく しゅ ほう そう
若 取 法 相
そく ぢゃく
即 著
が にん しゅじょう じゅしゃ
我 人 衆生 壽者

もし法に相を取るときは
すなわち
我・人・衆生・寿者に
著(じゃく)すればなり

「モノという想い」が起こるのなら
彼らには
自我に対する執着が あるのだろう
他人に対する執着や
生命に対する執着や
霊魂に対する執着が
あるのだろう

だからだ




がいこ
何以故


何を以ての故に

それは何故だろうか





にゃく しゅ ひほう そう
若 取 非法 相
そく ぢゃく
即 著
が にん しゅじょう じゅしゃ
我 人 衆生 壽者


もし 非法に 相を取るときは
すなわち
我 人 衆生 寿者に
著(じゃく)すればなり

”モノではないモノという想い”が
起こるということは
彼らに
自我に対する執着 があるのだろう
他人に対する執着
生命に対する執着
霊魂に対する執着
があるのだろう
だからだ





ぜこ
是故
ふおう しゅ ほう
不應 取 法
ふおう しゅ ひほう
不應 取 非法

是れ故
まさに 法をも 取るべからず
まさに 非法をも 取るべからず

それは何故か
実にまた スプーティよ
求道者・すぐれた人々は
法(理法)を とりあげてもいけないし
法(理法)でないモノを とりあげてもいけない
だからだ





い ぜぎ こ
以 是義 故

にょらい じょうせつ
如來 常説

是の義を 以ての 故に
如来は 常に 説けり

それ故
如来は この趣意で
次のような言葉を説かれている





にょとう びく ち
汝等 比丘 知
 がせっぽう
我 説法
にょ ばつゆ しゃ
如 筏喩 者
ほう しょう おうしゃ
法 尚 應捨
がきょう ひほう
何況 非法

汝ら比丘よ
我が説法を
筏の喩(たとえ)の如しと 知るものは
法すら なお まさに捨てるべし
いかに況(いわ)んや 非法をやと

「 筏(イカダ)の喩えの   
法門(仏の教え)を知る者は

法さえ捨てなければならない  
ましてや
法でないモノは 尚更である 」と




筏(いかだ)の喩(たと)え
< お釈迦様 >
修行者たちよ、教え(法)と言うものは

筏(いかだ)の様なモノであることを
汝らに示そう

例えば 街道を歩む人が居たとする

途中で 大水流を見たとしよう

こちらの岸は 危険で恐ろしく

かなたの岸は 安穏で恐ろしくない

しかし 渡舟も橋も無かった

その人は 草、木、枝を集め 筏を組み

その筏で かなたの岸に渡ることが出来た

その時 次のように考えた

この筏は 実に役に立った
だから この先も この筏を担いで進もう

どう思う
このようにするのは

その筏に対して なすべきことをしたのか

< 弟子 >
そうではありません
 師よ

< お釈迦様 >
修行者たちよ

教えとは 筏のようなものであると
このことを知るとき
汝らは
たとえ善き教えでも 捨て去るべきなのだ
悪しきモノなら 尚更である

パーリ語 中部経典Majjhima Nikāya,









しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何

須菩提よ 意において いかに

さらにまた 師はスブーティに向かい
こう問われた
スプーディよ どう思う






にょらいとく
如來 得
あのくたらさんみゃくさんぼだい や
阿耨多羅三藐三菩提 耶
にょらい う しょせっぽう や
如來有 所説法 耶


如来の阿耨多羅三藐三菩提を得るに
如来の説くところの法 有りや

如来が この上ない正しい悟りであるとして
現に悟っている法が

何かあるのだろうか
また
如来によって教え示された法が
何かあるのだろうか






しゅぼだい ごん
須菩提 言


須菩提 言わく

こう問われたとき
スブーティ長老は 師に向かって
このように答えた






せそん
世尊
にょ がげ ぶっしょ せつぎ
如 我解 佛所 説義

世尊よ
我れ 仏の説く所の義を解する 如くんば

師よ
私が師の説かれた所の意味を
理解した所によれば





むう じょう ほうみょう
無有 定 法名
あのくたらさんみゃくさんぼだい
阿耨多羅三藐三菩提

定(さだ)んで法にして 阿耨多羅三藐三菩提と
名づくるものは 有ること無し

如来が
この上ない正しい悟りであるとして
現に悟っておられる

法というモノは 何も有りません





や むう じょうほう
亦 無有
 定法
にょらい かせつ
如來 可説

また定(さだ)んで
法の如来によりて説かれる可きもの
有ること無し

また
如来が教え示された法も

有りません





がいこ
何以故


何を以っての故に

それは何故かというと





にょらい しょ せっぽう
如來 所 説法
かい ふかしゅ ふかせつ
皆 不可取 不可説

如来が説きたまうところの法は
皆な 取るべからず 説くべからず

如来が 現に悟られ
教え示された
 法というのは
認識することも出来ないし
口で説明することも出来ないからです






ひほう ひひほう
非法 非非法

法にも非ず 非法にも 非ざればなり

それは
“法”では ありません
“法でないモノ”でも ありません





しょいしゃが
所以者何


所以(ゆえん)は如何に

それは何故かというと






いっさい けんしょう かい
一切 賢聖 皆
い むいほう に うしゃべつ
以 無爲法 而 有差別

一切の賢聖は 皆
無爲の法を以て しかして 差別有り

聖者たちは 単なる現象的存在から高まり
限定されることの無い
“絶対そのもの”として生きているからです







しゅぼだい おいうんが
須菩提 於意云何

須菩提よ 意において いかに

師は問われた
スブーティよどう思うか






にゃく にんまん さんぜん だいせん せかい
 若 人滿 三千 大千 世界

 しっぽう いゆう ふせ
七寶 以用 布施

もし人 三千大千世界を満たす
七宝を以って 布施に用(もちい)んに

立派な若者や あるいは立派な娘が
この果てしなく広い宇宙を
(金・銀・瑠璃等の)七つの宝で満たし
如来・尊敬されるべき人

・正しく目覚めた人に
施したとする





ぜにん しょとく ふくとく
是人 所得 福徳

にょうい たふ
寧爲 多不

この人の得るところの福徳は
寧(むし)ろ 多しとなすや いなや

その立派な若者や立派な娘は
多くの功徳を積んだことになるのか






しゅぼだい ごん
須菩提 言
じんた せそん
甚多 世尊

須菩提言わく
甚(はなな)だ多し 世尊よ

スブーティは答えた
師よ 幸ある人よ
その立派な若者や立派な娘は
多くの功徳を 積んだことになります






がいこ
何以故


何を以っての故に

それは何故かというと
師よ






ぜふくとく そくひ ふくとくしょう
是福徳 即非 福徳性
ぜこ にょらいせっ ふくとくた
是故 如來説 福徳多

この福徳は すなわち 福徳に非ざればなり
これ故に 如来は福徳多しと説きたもう

「 如来によって説かれた 
功徳を積むというコトは
功徳を積まないコトである 」
と 如来が 説かれているからです
だからこそ
如来は「 功徳を積む 」と
説かれているのです





にゃくぶうにん おしきょうちゅう
若復 有人 於此經中

もしまた 人有りて この経の中において

師は言われた
そこで また実に スプーティよ
立派な若者や立派な娘が在り
この果てしない宇宙を
(金・銀・瑠璃等などの)
七つの宝で満たし
如来・尊敬されるべき人

・正しく目覚めた人に
施したとしても






じゅうぢ ないし しくげとう
受持 乃至 四句偈等
ゐ たにん せつ
爲他人説

乃至 四句の偈等を 受持し
他人の為に説くならば

この法門(仏の教え)から
四行詩の一つでも取り出し
他人の為に 詳しく

示し 説き 聞かせる者があるとすれば





ごふく しょうひ
其福 勝彼


その福は 彼よりも勝れたり

こちらの方が
より多くの
計り知れない
数え切れない
功徳を 積むことになる






がいこ しゅぼだい
何以故 須菩提

何を以っての故に 須菩提よ

それは何故かというと スブーティ





いっさい しょぶつ ぎょう しょぶつ
 一切 諸佛 及 諸佛
あのくたらさんみゃくさんぼだい ほう
阿耨多羅三藐三菩提 法
かい じゅう しきょう しゅつ
皆 從 此經 出

一切の諸仏及び諸仏の
阿耨多羅三藐三菩提の法は
皆 この経より出でたばなり

実に 如来・尊敬されるべき人

・正しく目覚めた人の
この上ない正しい悟りも
それから生じていて

また 目覚めた人である世尊らも
それから生まれているからである





しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

それは何故かというと
スブーティ





しょい ぶっぽうしゃ
所謂 佛法者
そくひ ぶっぽう
即非 佛法

所謂(いわゆ)る 仏法は
即ち 仏法に 非ざるなり

「 目覚めた人の理法というのは 
目覚めた人の理法(という固定的実体)ではない 」
と 如来が説いているからだ
だからこそ
(現象として)目覚めた人の理法と言われるのだ








しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何

須菩提 意において いかに

スブーティよ どう思う





しゅだをん のうさ ぜねん
須陀洹 能作 是念
がとく しゅだをん が ふ
我得 須陀洹 果 不

須陀洹は 能くこの念を作し
「我れ須陀洹の果を得たり」
とするや いなや

永遠の平安の流れに乗った者
(srota-āpannaスロータ・アーバンナ)が
「 私は 永遠の平安の流れに乗った者
(スロータ・アーバンナ)
という成果に達しているのだ 」
という想いを起こすだろうか?






しゅぼだい ごん ほっちゃ せそん
須菩提 言 不也 世尊

須菩提 言わく いななり 世尊よ

スブーティは答えた
師よ そういうことはありません
永遠の平安の流れに乗った者
(スロータ・アーバンナ)が
「 私は 永遠の平安の流れに乗った者
(スロータ・アーバンナ)
という成果に達しているのだ 」
という想いを 起こすはずがありません






がいこ
何以故


何を以っての故に

それは何故かというと





しゅだをん
須陀洹
みょうい にゅうる
名爲 入流
に むしょにゅう
而 無所入

須陀洹は
名づけて 入流と為せども
しかも 入る所 無ければなり

師よ 実に 彼は

何も得ている訳では無いからです
だからこそ
永遠の平安の流れに乗った者
(スロータ・アーバンナ)
と言われるのです






ふにゅう
不入
しき しょう こう み そく ほう
色 聲 香 味 觸 法


色・声・香・味・触・法に
入らざる

彼は 形を得た訳でもなく
声や 香りや 味や 触れられるモノや 心の対象を

得た訳でもありません





ぜみょう しゅだをん
是名 須陀洹


これを須陀洹と名づく

だからこそ
永遠の平安の流れに乗った者
(スロータ・アーバンナ)
と言われるのです

師よ

もし 永遠の平安の流れに乗った者
(スロータ・アーバンナ)が
「 私は 永遠の平安の流れに乗った者
(スロータ・アーバンナ)
という成果に達したのだ 」と
そのような想いを起こしたとすれば
彼には
自我 に対する執着
生きているモノ に対する執着
個体 に対する執着
個人 に対する執着が
有ることになるでしょう






しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何

須菩提よ 意に於(お)いて いかに

師は問われた
スブーティよどう思うか






しだごん のうさ ぜねん
斯陀含 能作 是念
がとく しだごん が ふ
我得 斯陀含 果 不

斯陀含は 能くこの念を作し
「 我れ斯陀含の果を得たり 」
とするや いなや

もう一度だけ生まれ変わり悟る者
(sakṛdāgāminサクリダーガーミン)が
「 私は もう一度 生まれ変わり悟る者
(サクリダーガーミン)
という成果に達している 」
という想いを起こすだろうか






しゅぼだい ごん ほっちゃ せそん
須菩提 言 不也 世尊


須菩提 言わく いななり 世尊よ

スブーティは答えた
師よ そういうことはありません
もう一度だけ生まれ変わり悟る者
(サクリダーガーミン)が
「 私は もう一度 生まれ変わり悟る者 
(サクリダーガーミン)という成果に
達しているのだ 」と
そのような考えを起こすはずが
ありません






がいこ
何以故


何を以っての故に

それは何故かというと






しだごん みょう いちおうらい
斯陀含 名 一往來
にじつ む おうらい
而實 無 往來

斯陀含を 一往来と名づく
而れども 実は 往来無し

もう一度だけ生まれ変わり悟る者
(サクリダーガーミン)に
なったと言っても
何も そういうモノが
ある訳では無いからです





ぜみょう しだごん
是名 斯陀含

これを 斯陀含と 名づくるなり

だからこそ
もう一度だけ生まれ変わり悟る者
(サクリダーガーミン)
と言われるのです





しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何

須菩提よ 意において いかに

師は問われた
スブーティよ どう思う






あなごん のうさ ぜねん
阿那含 能作 是念
がとく あなごん が ふ
我得 阿那含 果 不

阿那含は 能く是の念を作し
「我れ阿那含(あなごん)の果を得たり」
とするや いなや

もう決して生まれ変わって来ない者
(anāgāminアナーガーミン)が
「      私は        
もう決して生まれ変わって来ない者
(アナーガーミン)という成果に達したのだ」
と そのような想いを起こすだろうか?






しゅぼだい ごん ほっちゃ せそん
須菩提 言 不也 世尊


須菩提 言わく いななり 世尊よ

スブーティは答えた
師よ そういうことはありません
もう決して生まれ変わって来ない者
(アナーガーミン)が
「      私は        
もう決して生まれ変わって来ない者
(アナーガーミン)という成果に達したのだ」
と そういう想いを起こすはずはありません






がいこ
何以故

何を以っての故に

それは何故かというと 師よ





あなごん みょうい ふらい
 阿那含 名爲 不來
にじつ む ふらい
而實 無 不來

阿那含を 名づけて 不来と為す
而かれども実は 来ずということ無し

実に
もう決して生まれ変わって来ない者
(アナーガーミン)
になったと言っても
何も そういうモノが
ある訳では無いからです






ぜこ みょう あなごん
是故 名 阿那含


これ故に 阿那含と名づくるなり

だからこそ
もう決して生まれ変わって来ない者
(アナーガーミン)

と言われるのです





しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何


須菩提よ 意に於いて いかに

師は問われた
スブーティよ どう思うか






あらかん のうさ ぜねん
阿羅漢 能作 是念
がとく あらかん どう ふ
我得 阿羅漢 道 不

阿羅漢は 能く我は この念いを作して
「我れ 阿羅漢道を得たり」
となすや いなや

尊敬されるべき人
(arhatアルハト)は
「     私は      
尊敬されるべき人(アルハト)
     になった    」
という想いを起こすだろうか?






しゅぼだい ごん
須菩提 言
ほっちゃ せそん
不也 世尊

須菩提 言わく
いななり 世尊よ

スブーティは答えた
師よ そういうことはありません
尊敬されるべき人(アルハト)は
「      私は      
尊敬されるべき人(アルハト)
     になった    」
という想いを起こはずは ありません






がいこ
何以故


何を以っての故に

それは何故かというと
師よ





じつ むう ほうみょう あらかん
無有 法名 阿羅漢

実に
法として 阿羅漢と名づくるもの
有ること無ければなり

実に
尊敬されるべき人(アルハト)と
言われるようなモノは
何も無いからです
だからこそ
尊敬されるべき人(アルハト)
と言われるのです





せそん にゃく あらかん さぜねん
世尊 若 阿羅漢 作是念
がとく あらかんどう
我得 阿羅漢道

世尊よ 若し阿羅漢にして この念を作し
「我れ 阿羅漢の道を得たり」とするは

師よ

もし尊敬されるべき人(アルハト)が
「      私は       
尊敬されるべき人(アルハト)
      になった      」
という想いが起きるというのなら






そく いぢゃく
即 爲著
が にん しゅじょう じゅしゃ
我 人 衆生 壽者


即ち
我 人 衆生 寿者に
著(じゃく)せらる

彼の中に
自我に対する執着が在ることになり
他人に対する執着
生命に対する執着
霊魂に対する執着

が 在ることになるでしょう





せそん ぶっせつ がとく
世尊 佛説 我得
むじょう ざんまい
無諍 三昧
にんちゅうさいい だいいち
人中最爲 第一
ぜ だいいち りよく あらかん
是 第一 離欲 阿羅漢

世尊よ
仏は 我れを
無諍 三昧を得たる人中にて
最も第一となす
これ第一の 離欲の阿羅漢なりと
説かれたれども

それは何故かというと 師よ
如来・尊敬されるべき人
・正しく目覚めた人々は
私(スプーディ)のことを
争いや心の葛藤の無い境地を楽しむ
第一人者だと おっしゃっいました






せそん が ふさ ぜねん
世尊 我 不作 是念
がぜ りよく あらかん
我是 離欲 阿羅漢


世尊よ 我れは 是の念を作さず
「 我は是れ 離欲の阿羅漢なり 」と

私は尊敬されるべき人であり
欲望を離れています
しかし 師よ
私は
「尊敬されるべき人であり
  欲望を離れている 」
というような想いを起こしません





せそん
世尊
がにゃく さぜねん
我若 作是念
がとく あらかんどう
我得 阿羅漢道

世尊よ
我れ もし是の念を作して
「我れ 阿羅漢の道を得たり」とせば

師よ
もし私が

「私は 尊敬されるべき人という
   状態に達してる   」
という想いを 起こすのなら






せそん そく ふせつ
世尊 即 不説


世尊は すなわち 説きたまわりしならん

如来が 私のことを(以下のように)
断言するコトは無かったでしょう






しゅぼだい ぜぎょう あれんな ぎょうしゃ
須菩提 是樂  阿蘭那 行者
い しゅぼだい じつむ しょぎょう
以 須菩提 實無 所行
にみょう しゅぼだい
而名 須菩提
ぜぎょう あれんな ぎょう
是樂 阿蘭那 行

「    須菩提は 是れ     
阿蘭那の行を 楽しむ者なり
須菩提の 実に所行無きを以てして
しかも須菩提は 是れ
阿蘭那の行を楽しむと名づく 」と

「 立派な若者であるスブーティは
争いを離れた境地を楽しむ
第一人者であり
何にも とらわれないため
争いを離れた者である 」と





四向四果 :しこうしか
四双八輩:しそうはちはい

原始仏教や部派仏教における
四つの修行の階位


須陀洹しゅだおん

梵srota-āpannaスロータ・アーバンナ
漢訳は 預流・入流
預流(よる):預流向・預流果  
聖道の流れに入った者
天界と人間界とを七度往来する

その間に悟る者

斯陀含しだごん

梵sakṛdāgāminサクリダーガーミン
漢訳は 来
一来(いちらい):一来向・一来果
天界か人間界に

もう一度だけ生まれ変わり 悟る者

阿那含あなごん

梵anāgāminアナーガーミン
漢訳は 不還・ 不来
不還(ふげん):不還向・不還果
この世に戻ることなく 天界で悟る者
欲界の煩悩を断じ尽くした聖者 

   阿羅漢あらかん

梵arhatアルハト
漢訳は 応供
阿羅漢(あらかん):阿羅漢向・阿羅漢果
尊敬されるべき人

供養を受けるのにふさわしい人
煩悩を断じ尽し 迷いの世界に

流転することのない聖者







ぶつごう しゅぼだい
佛告 須菩提
おい うんが
於意 云何

仏は 須菩提に告げたもう
意において いかに

師は問われた
スブーティよ どう思う





にょらい しゃくざい
如來 昔在
ねんとぶっしょ おほう うしょとく ふ
然燈佛所 於法 有所得 不

如来は昔
然燈仏(ねんとうぶつ)の所に在し
法において 得る所有りしや いなや

如来が昔 尊敬されるべき人・
正しく目覚めた人である
ディーパンカラDīpaṃkara如来のお側で

得られたモノが 何かあるだろうか





ほっちゃ せそん
不也 世尊


いななり 世尊

師よ そういったことは ありません






にょらいざい ねんとうぶっしょ
如來在 然燈佛所
おほう じつむ しょとく
於法 實無 所得

如来は 然燈仏の所に在りて
法において 実には得る所なし

如来が
尊敬されるべき人・正しく目覚めた人である
ディーパンカラDīpaṃkara如来のお側で

得られたモノは 何もありません





しゅぼだい
須菩提
おい うんが
於意 云何

須菩提よ
意において いかに

師は問われた

スブーティよ





ぼさっ しょうごん ぶつど ふ
菩薩 莊嚴 佛土 不
ほっちゃ せそん
不也 世尊

菩薩は 仏土を莊厳するやいなや
いななり 世尊

もし ある求道者が
「 私は国土の建設を成し遂げるだろう 」と
言ったのであれば
彼は間違いを言ったことになる






がいこ
何以故


何を以っての故に

それは何故かというと

スプーティよ





しょうごん ぶつどしゃ
莊嚴 佛土者
そくひ しょうごん
即非 莊嚴

仏土を莊厳するとは
すなわち 莊厳するに非ざればなり

如来は
「  国土の建設というのは  
 国土の建設ではないことだ 」
と 説かれているからだ






ぜみょう しょうごん
是名 莊嚴


これを莊厳と名づくるなり

だからこそ
「 国土の建設 」と言われるのだ






ぜこ しゅぼだい
是故 須菩提


是れ故に 須菩提よ

だから スブーティよ





しょぼさっ まかさつ おうにょぜ
諸菩薩 摩訶薩 應如是
しょう しょうじょうしん
生 清淨心

諸菩薩 摩訶薩は まさにかくの如く
清浄な心を生ずべし

求道者・偉大な人々は
とらわれない心を
起こさなければならない
ナニモノかに とらわれた心を
起こしてはならない






ふ おうぢゅう しき しょうしん
不 應住 色 生心


まさに色に住して 心を生ずべからず

形にとらわれた心を起こしてはならない






ふ おうじゅう
不 應住
しょう こう み そく ほう しょうしん
聲 香 味 觸 法 生心

まさに 声香味触法に 住して
心を生ずべからず

声・香り・味・触れるもの・心の対象に
とらわれた心を 起こしてはいけない






おうむ しょじゅう にしょう ごしん
應無 所住
 而生 其心

まさに住する所無くして
しかも 其の心を生ずべし

何ものにも とらわれない心を
起こさなければならない




= 六祖壇経の一節 =

五祖(弘忍)は 夜の三更に至って

慧能を堂内に喚び
袈裟を以て遮り囲み、
人をして見せしめず、

慧能の為に「金剛経」を説く。

恰(あたか)も
「応無所住而生其心」に至るや
言下に
すなわち一切万法は

自性を離れざることを悟る





しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

スブーティよ






ひ にょう にんしん
譬 如有 人身

にょ しゅみせん のう
如 須彌山 王

譬えば人有りて
身は須弥山 王の如しとせんに

たとえば ここに
山の王シュメール(Sumeru)山のように

体が整って 大きい
一人の人が居たとする





おい うんが
於意 云何

ぜしん いだいふ
是身 爲大不

意において いかに
是の身は 大と為すやいなや

スプーティよ どう思う
彼の身体は大きいだろうか






しゅぼだい ごん
須菩提 言


須菩提 言わく

スブーティは 答えた






じんだい せそん
甚大 世尊

甚だ大なり 世尊よ

師よ それは大きいですとも
幸ある人よ その身体は大きいですとも






がいこ
何以故


何を以ての故に

それは何故かというと 師よ






ぶっせつ ひしん ぜみょう だいしん
 佛説 非身 是名 大身


仏は「非身を是れ大身と名づく」と
説きたまわればなり

「    身体と言うけど    
そんなモノは無い 」と
如来が おっしゃったからです
だからこそ
身体と言われるのです

師よ
それは有でもなければ
無でもないのです
だからこそ
身体と言われるのです



十一





しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

師は問われた

スブーティよ どう思う?





にょごうがちゅう しょうしゃしゅ
如恒河中 所有沙數
にょぜ しゃとうごうが
如是 沙等恒河

恒河の中のあらゆる沙(すな)の数の如き
是くの如き沙と等しき恒河ありとせんに

ガンジス河の砂の数だけ
ガンジス河が有るとしよう






おういうんが
於意云何
ぜしょごうがしゃ
是諸恒河沙
にょういた ふ
寧爲多 不

意において いかに
この諸々の恒河の沙は
 寧ろ多しと為すや いなや

それらの河にある

砂の数は 多いだろうか?





しゅぼだい ごん
須菩提 言


須菩提 言わく

スブーティは答えた






じんた せそん
甚多 世尊
たんしょごうが しょうたむしゅ
但諸恒河 尚多無數

甚だ多し 世尊よ
ただ諸々の恒河すら なほ多く無数なり

師よ
それだけのガンジス河といえば
河の数だけで
ものすごい数になるでしょう






がきょう ごしゃ
何況 其沙


いかに況(いわ)んや 其の沙をや

まして それらのガンジス河にある
砂の数に至っては 尚更です






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

師は言われた
スブーティよ





がこん じつごん ごうにょ
我今 實言 告汝

我れ今 実言もて 汝に告げん

私は 貴方に告げることにしよう
スプーディよ
貴方は よく心に刻むべきだ






にゃくう ぜんなんし ぜんにょにん
若有 善男子 善女人
いしっぽうまんにしょ
以七寶滿爾所
ごうがしゃしゅ
恒河沙數
さんぜんだいせんせかい
三千大千世界


もし 善男子・善女人有りて
七宝を以て 爾所(そこばく)
恒河の沙の数程の
三千大千世界を満たし

それらの
ガンジス河にある砂の数だけの世界を
ある女なり 男なりが
(金・銀・瑠璃などの)
七つの宝で満たして
・・





いゆう ふせ
以用 布施

とくふく たふ
得福 多不

以て用いて 布施せんに
福を得ること多からんや いなや

如来・尊敬されるべき人・正しく悟った人々に 施したとしよう

スプーティよ どう思う?
その女なり あるいは男なりは
そのことで
多くの功徳を

積んだことになるだろうか






しゅぼだい ごん
須菩提 言


須菩提 言わく

スブーティは答えた





じんた せそん
甚多 世尊

甚だ多し 世尊よ

師よ 幸ある人よ
その女なり 男なりは
それで
多くの 計り知れない
数え切れない

功徳を積んだことになります





ぶつごう しゅぼだい
佛告 須菩提


仏は 須菩提に告げたもう

師は 言われた





にゃく ぜんなんし ぜんにょにん
若 善男子 善女人
お しきょう ちゅう 
於 此經 中
ないし じゅぢ しくげとう
乃至 受持
 四句偈等

もし善男子・善女人 有りて
この経の中において
乃至 四句の偈等を 受持し

実にまた
スプーティよ
ある女なり 男なりが
それだけの世界を 七つの宝で満たし
如来・尊敬されるべき人

・正しく悟った人々に
施したとしても
もし立派な若者や あるいは立派な娘が
この法門(仏の教え)から
四行詩ひとつでも取り出し・・





いたにん せつ にし ふくとく
爲他人 説 而此 福徳
しょう ぜんふくとく
勝 前福徳


他人の為に説かば 此の福徳は
前の福徳に勝れたり

他人の為に

示し 説き 聞かせるなら
こちらの方が この事のために

より多くの
計り知れない程 数え切れない程の

功徳を 積むことになるのだ




十二





ぶじ しゅぼだい
復次 須菩提

また次に 須菩提よ

さらにまた スブーティ






ずいせつ ぜきょう
隨説 是經

ないし しくげとう
乃至 四句偈等

隨(したがい)て この経の
乃至 四句の偈等を説かば

どんな地方でも
この法門(仏の教え)から
四行詩の一つでも取り出し
話して 説いて 聞かせることが
行われるのなら






とうち ししょ いっさい せけん
當知 此處 一切 世間
てん にん あしゅら
天 人 阿修羅
かいおう くよう にょ ぶっとうびょう
皆應 供養 如 佛塔廟


まさに知るべし この処は一切世間の
天・人・阿修羅の皆
まさに供養すること
仏の塔廟の如くなるべきを

その地方は
神々と人間とアスラたちを含む
世界にとって
最大の尊敬を払われるべき
塔廟と同じくらい 尊いモノとなるだろう






がきょう うにん
何況 有人
じんのう じゅじ どくじゅ 
盡能 受持 讀誦


いかに況(いわん)や 人有りて
盡(ことごと)く能く 受持し 読誦せんをや

言うまでもなく
この法門(仏の教え)を 余さず
記憶し 読みこみ 研究し
他人の為に
詳しく説いて 聞かせる人々が

居るとしたら





しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

スブーティよ





とうち ぜにん じょうじゅ
當知 是人 成就
さいじょうだいいち けうしほう
最上第一 希有之法


まさに知るべし この人は
最上第一の希有(けう)の法を
成就したることを

彼らは
最高の奇端 吉兆を備えた者と

なるに違いない





にゃく ぜきょう でんしょ ざいししょ
若 是經 典所 在之處
そくい うぶつ にゃく そんじゅう でし
即爲 有佛 若 尊重 弟子


若しくは この経典が所在する処には
すなわち 仏もしくは尊重の弟子
有りと為すことを

スブーティよ
そういう地方には
師と仰がれる者が住む
様々な聡明なる師の地位にある者たちが

住むのだ




十三





にじ しゅぼだい
爾時 須菩提
びゃくぶつごん
白佛言

その時に 須菩提は
仏に白(もう)して言わく

このように言われた時
スブーティ長老は
師に向かい 次のように問うた





せそん
世尊

とうがみょう しきょう
當何名 此經

世尊よ
まさに この経を何と名づけむ

師よ
この法門(仏の教え)の名は 何ですか





がとう うんが ぶぢ
我等 云何 奉持


我ら 云何(いか)に 奉持すべきや

また

これを どのように
記憶したらよいでしょうか





ぶつごう しゅぼだい
佛告 須菩提


仏は 須菩提に告げたもう

このように問われた時
師は スプーティ長老に向かって
次のように答えられた






ぜきょう みょうい
是經 名爲
こんごうはんにゃはらみつ
金剛般若波羅蜜


この経は 名づけて
金剛般若波羅蜜と 為す

スプーティよ この法門(仏の教え)は
智慧の完成 と名付けられる






いぜ みょうじ にょとう ぶじ
以是 名字 汝當 奉持


この名字を以て 汝は まさに奉持すべし

そのように記憶するがよい






しょい しゃが しゅぼだい
所以 者何 須菩提


所以(ゆえん)は いかに 須菩提よ

それは何故かというと スブーティよ






ぶっせつ はんにゃはらみつ
佛説 般若波羅蜜
そく ひはんにゃはらみつ
即 非般若波羅蜜


仏の般若波羅蜜を説けるは
すなわち 般若波羅蜜に非ざればなり

如来によって説かれた
智慧の完成というのは
智慧の完成(という実体)ではない と
如来が説かれているからだ
だからこそ(現象としての)
智慧の完成 と言われるのだ






しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何


須菩提よ 意に於いて いかに

スブーティよ どう思う





にょらい
如來

うしょ せっぽうふ
有所 説法不

如来により
説かれたる所の法は 有るやいなや

如来によって説かれた 法というモノが
何かあるのだろうか






しゅぼだい びゃくぶつごん
須菩提 白佛言


須菩提は 仏に白(もう)して言わく

スブーティは 答えた





せそん
世尊

にょらい むしょせつ
如來 無所説

世尊よ
如来に 説きたまふ所無し

師よ そのようなモノ(固定された実体)はありません
如来によって説かれた法という
モノ(固定された実体)は
何も無いのです






しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何


須菩提よ 意に於いて いかに

師は問われた
スブーティよ どう思う






さんぜん だいせん せかい
三千 大千 世界
しょう みじん
所有 微塵
ぜいた ふ
是爲多 不

三千大千世界
あらゆる微塵
これを多しと為すや いなや

この果てしなく広い宇宙の
大地の塵は 多いだろうか





しゅぼだい ごん
須菩提 言


須菩提 言わく

スブーティは 答えた





じんた せそん
甚多 世尊


甚だ多し 世尊よ

師よ それは多いです
幸ある人よ それは多いです






しゅぼだい
須菩提


須菩提

スブーティは言った





しょみぢん にょらいせつ びみぢん
諸微塵 如來説 非微塵


諸々の微塵を 如来は 微塵に非ずと説き

それは何故かというと 師よ
「 如来によって説かれた 大地の塵は
大地の塵(という実体)ではない 」と
如来が 説かれているからです





ぜみょう みぢん
是名 微塵


是を微塵と名づけたり

だからこそ(現象として)
大地の塵と言われるのです






にょらいせつ せかい ひせかい
如來説 世界 非世界


如来は 世界は世界に非ず と説き

また
如来によって説かれた この世界は
世界(という固定的実体)ではない と
如来が 説かれているからです






ぜみょう せかい
是名 世界


これを 世界と名づけたり

だからこそ
(現象として)世界と言われるのです






しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何


須菩提よ 意に於いて いかに

師は問われた
スブーティよ どう思う






かい さんじゅうにそう けん にょらい ふ
可以 三十二相 見 如來 不


三十二相を以て
如来を見るべきや いなや

如来・尊敬されるべき人・
正しく目覚めた人は
偉大な人物に備わる三十二の特徴によって
見分けられるだろうか






ほっちゃ せそん
不也 世尊


いななり 世尊よ

スブーティは 答えた
師よ そうではありません





ふかい さんじゅうにそう
不可以 三十二相
とくけん にょらい
得見 如來

三十二相を以て
如来を見ることを得べからず

如来・尊敬されるべき
・正しく目覚めた人は
偉大な人物に備わる三十二の特徴によって 見分けられるモノではありません





がいこ
何以故


何を以ての故に

それは何故かというと





にょらい せつ さんじゅうにそう
如來 説 三十二相
そくぜ ひそう
即是 非相

如来は 三十二相は
すなわち これ 相に非ずと
説かれたればなり

実は 師よ
如来によって説かれた
偉大な人物に備わる三十二の特徴は
特徴(という実体)ではない と
如来が説かれているからです






ぜみょう さんじゅうにそう
是名 三十二相


これを三十二相と名づくるなり

だからこそ(現象として)
偉大な人物に備わる三十二の特徴と
言われるのです






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

師は言われた
また 実に スブーティよ






にゃくう ぜんなんし ぜんにょにん
若有 善男子 善女人


もし 善男子 善女人 有りて

一人の 女または男が
・・





い ごうがしゃとう しんみょう ふせ
以 恒河沙等 身命 布施


恒河の沙に等しき 身命を以て布施せんに

毎日 ガンジス河の砂の数だけの
身体を捧げ続け
ガンジス河の砂の数ほどの
無限の時の間
その身体を捧げ続けたとしても






にゃくぶ うにん お しきょう ちゅう
若復有人 於此經中
ないし じゅじ しくげ とう
乃至 受持 四句偈 等

若し復た人ありて この経の中において
乃至 四句の偈等を 受持し

この法門(仏の教え)から
四行詩ひとつでも取り出し・・






いたにん せつ ごふく じんた
爲他人 説 其福 甚多


他人の為に 説かんに 其の福 甚だ多し

他人のために

教え示し 説き聞かせる者が
居るとすれば
こちらの方が このことのために
より多くの 計り知れない程の
数え切れない程の
功徳を積むことになるだろう




十四





にじ しゅぼだい
爾時 須菩提

その時 須菩提は

そのとき スブーティ長老は






もんせつ ぜきょう
聞説 是經

じんげ ぎしゅ
深解 義趣

この経を説きたまふを聞きて
深く義趣を解し

法に感動し 涙を流された





ているい ひきゅう にびゃく ぶつごん
涕涙 悲泣 而白 佛言


涕涙 悲泣して 仏に白(もう)して言わく

彼は 涙を ぬぐうと
師に向かって 言った






けう せそん
希有 世尊


希有なり 世尊よ

師よ すばらしいことです

幸ある人よ
まったく素晴らしいことです






ぶっせつ にょぜ じんじん きょうでん
佛説 如是 甚深 經典


仏は是く如き 甚深の経典を説きたもう

この上ない道に向かう人々の為に
最も勝れた道に向かう人々のために
この法門(仏の教え)を
如来が説かれたと言うことは






がじゅう しゃくらい
我從 昔來

しょとく えげん
所得 慧眼

我れ 昔よりこのかた
得たる所の慧眼をもて

そして師よ これによって
私に智が生じたことは






みぞう とくもん
未曾 得聞

にょぜ しきょう
如是 之經

未だ曾(かつ)て
かくの如きの経を聞くことを
得ざり

師よ 私は
このような種類の法門(仏の教え)を
未だかつて 聞いたことがありません






せそん にゃくぶ うにん
世尊 若復 有人 
とくもん ぜきょう しんじん しょうじょ
得聞 是經 信心 清淨
そくしょう じっそう
即生 實相


世尊よ もし復た人有りて
この経を聞くことを得て 信心清浄ならば
すなわち 実相を生ぜん

師よ この経が説かれるのを聞いて
真実であるという想いを起こす求道者は






とうち ぜにん
當知 是人
じょうじゅ だいいち けう くどく
成就 第一 希有 功徳

まさに知るべし この人は
第一希有の功徳を 成就せんことを

この上ないすばらしい性質を
備えた人々でしょう






せそん
世尊


世尊よ

それは何故かというと 師よ






ぜじつそう しゃ
是實相 者

そく ぜひそう
即 是非相

是れ実相とは
すなわち 是れ非相なればなり

”真実であるという想い”は
”真実であるという想いが無いこと”
であるからです






ぜこ にょらいせつ
是故 如來説

みょう じっそう
名 實相

これ故に 如来は説いて
実相と 名づけたもう

だからこそ 如来は
真実であるという想い

であると説かれるのです





せそん
世尊


世尊よ

師よ






がこん とくもん
我今 得聞

にょぜ きょうでん
如是 經典

我れ今
かくの如き経典を
聞くことを得て

この法門(仏の教え)が説かれている時に






しんげ じゅぢ ふそく いなん
信解 受持 不足 爲難


信解し 受持するを 難しと為すに 足らず

私がそれを受け入れ 理解することは
それほど 難しいことでは ありません






にゃくとう らいせ ご ごひゃくさい
若當 來世 後 五百歳


もし まさに来るべき世の 後の五百歳に

しかし 師よ
これから先 後の時世になり
第二の五百年代の
正しい教えが滅びる時であっても






ごう しゅじょう
其有 衆生
とくもん ぜきょう
得聞 是經
しんげ じゅぢ
信解 受持


その衆生有りて
この経を聞くことを得て
信解し受持することあれば

ある人々は
この法門(仏の教え)をとりあげ
記憶し となえ 研究し
他人の為に 詳しく説明するでしょう






ぜにん そくい
是人 即爲

だいいち けう
第一 希有

この人をこそ すなわち
第一の希有と 為すなり

それらの人々は
最も素晴らしい性質を

備えた者であると言えるでしょう





がいこ
何以故

何を以ての故に

けれども また 師よ





しにん
此人
むがそう むにんそう
無我相 無人相
むしゅじょうそう むじゅしゃそう
無衆生相 無壽者相


この人は
我相も 人相も
衆生相も 寿者相も
無ければなり

実に それらの人々というのは
自我があるという想いが
起こることが無く
他人があるという想いや
生命があるという想いや
霊魂があるという想いも
起こることが無いでしょう
また
それらの人たちには
想うということも
想わないということも
起こらないでしょう






しょいしゃ が
所以者 何


所以(ゆえん)は いかに

それは何故かというと 師よ






がそう そくぜ ひそう
我相 即是 非相


我相は すなわち是れ 相に非ず

自我があるという想いは
想わないこと に他なりません






にんそう しゅじょうそう じゅうしゃそう
人相 衆生相 壽者相
 そくぜ ひそう
即是 非相

人相 衆生相 寿者相も
すなわち是れ 相に非ざればなり

他人があるという想いも
生命があるという想いも
霊魂があるという想いも
想わないことに 他ならないからです






がいこ
何以故

何を以ての故に

それは何故かというと






り いっさい しょそう
離 一切 諸相
そく みょう しょぶつ
即 名 諸佛

一切の諸相を 離れたるを
すなわち 諸仏と 名づくればなり

み仏である世尊らは
一切の想いというモノから
遠く離れておられるからです






ぶつごう しゅぼだい
佛告 須菩提


仏は 須菩提に 告げたもう

このように言われた時
師は スブーティ長老に向かい
このように言われた






にょぜ にょぜ
如是 如是


かくの如し かくの如し

そのとうりだ スブーティよ
そのとうりだ






にゃくぶ うにん とくもん ぜきょう
若復 有人 得聞 是經
ふきょう ふふ ふい
不驚 不怖 不畏


もし復た人有り この経を聞くことを得て
驚かず 怖れず 畏(おそ)れざれば

この経が説かれる時に
驚かず 恐れず 恐怖に陥らない人々は






とうち ぜにん
當知 是人

 じんに けう
甚爲 希有

まさに知るべし この人は
甚だ希有と為す

この上ない すばらしい性質を
備えた人々である






がいこ しゅぼだい
何以故 須菩提


何を以ての故に 須菩提よ

それは何故かというと スブーティよ






にょらいせつ
如來説
だいいちはらみっ
第一波羅蜜
そくひ だいいちはらみっ
即非 第一波羅蜜

如来は 説きたまえり
第一波羅蜜は
すなわち 第一波羅蜜に非ず と

如来が説かれた
この最上の完成は
実は完成ではないからだ
また スブーティよ
如来が 最上の完成と説いたことを
無量の 目覚めた人である世尊たちも
説いているからだ






ぜみょう だいいちはらみつ
是名 第一波羅蜜


これを第一波羅蜜と 名づくるなり

だからこそ
最上の完成者 と言われるのだ






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

けれども さらにまた
スブーティよ






にんにくはらみつ にょらいせっ
忍辱波羅蜜 如來説
ぴ にんにくはらみつ
非 忍辱波羅蜜

忍辱波羅蜜を 如來は説きたもう
忍辱波羅蜜に非ずと

実に 如来における 忍耐の完成は
実は 忍耐の完成(という固定的実体)ではない






ぜみょう にんにく はらみつ
是名 忍辱 波羅蜜


これを忍辱波羅蜜と 名づくるなり

だからこそ(現象として)
忍耐の完成 と言われるのだ






がいこ しゅぼだい
何以故 須菩提

何を以ての故に 須菩提よ

それは何故かというと スブーティよ





にょがしゃく い かりおう
如我昔 爲 歌利王
かっせつ しんたい
割截 身體


我れ昔 歌利王の為に
身体を割截せらたるときの如し

かつて悪王の歌利王(Kalinga-rajaカリ王)が
私の身体や手足から
肉を切り取った時でも




忍辱仙人 説話


お釈迦様が 前世において
 忍辱仙人であったとき
歌利王に手足を切断された
しかし

忍辱仙人は 怒ることなく
手足は復元したという話

ジャータカ(本生話・本生譚)




が おにじ
我 於爾時
むがそう むにんそう
無我相 無人相
むしゅじょうそう むじゅしゃそう
無衆生相 無壽者相


我れ その時において
我相も無く 人相も無く
衆生相も無く 無寿者相も無かりき

私には
自我があるという想い
他人があるという想い
生命があるという想い
霊魂があるという想いが

無かったからだ
さらに また
想うという事も
想わないという事も
無かったからだ






がいこ
何以故

何を以ての故に

それは何故かというと スプーディよ






がお おうしゃく
我於 往昔

我れ 往昔

もしも あの時





せつせつ しげじ にゃくう
節節 支解時 若有
がそう にんそう 
我相 人相
しゅじょうそう じゅしゃそう
衆生相
 壽者相
おうしょう しんごん
應生 瞋恨

節節(ふしぶし)を 支解されし時に もし
我相 人相 衆生相 寿者相 あらば
まさに 瞋恨を生ずべかりしならん

私に
自我があるという想いが在れば
私に 怨みの想いが起こっただろう
もし
生きているという想い
他人があるという想い
霊魂があるという想い

が在れば
その時 私に
怨みの想いが あったはずだ
だからだ





十五





しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

それは 何故かというと スブーティよ





うねん かこ
又念 過去
 お ごひゃくせ
於 五百世
 さ にんにくせんにん
作 忍辱仙人

また過去を おもうに
五百世に於いて
忍辱仙人となり

私は ありありと思い出す
過去の世を
五百もの生涯の間に
私が「忍耐を説く者」という名の
仙人であった時のことを






を にしょせ
於 爾所世
むがそう むにんそう
無我相 無人相
むしゅじょうそう むじゅしゃそう
無衆生相 無壽者相

そこばくの世において
我相も無く 人相も無く
衆生相も無く 寿者相も無かりき

その際においても
私に
自我があるという想い
他人があるという想い
生命があるという想い
霊魂があるという想い
は無かった






ぜこ しゅぼだい
是故 須菩提

この故に 須菩提よ

だから スブーティよ





ぼさっ おうり いっさいそう
菩薩 應離 一切相
ほつ

あのくたらさんみゃくさんぼだい しん
阿耨多羅三藐三菩提 心

菩薩は まさに一切の相を 離れ
発すべきなり
阿耨多羅三藐三菩提の心を

求道者・すぐれた人々は
一切の想いを捨てて
この上なく正しい目覚めに向かい心を
起こさなければならない






ふおう じゅうしき しょうしん
不應 住色 生心

まさに 色に住して 心を生ずべからず

形にとらわれた心を起こしてはならない





ふおうじゅう
不應住
しょうこうみそくほう しょうしん
聲香味觸法 生心

まさに 声香味触法に 住して
心を生ずべからず

声 香り 味 触れられるモノ 心の対象に

とらわれた心を
起こしてはならない
法にとらわれた心を
起こしてはならないし
法ではないモノに
とらわれた心を
起こしてはならない






おうしょう むしょ じゅうしん
應生 無所 住心

まさに 住する所なき心を 生ずべし

どんなモノにも
とらわれた心を 起こしてはならない






にゃく しんうじゅう そくい ひじゅう
若 心有住 即爲 非住

もし心に住あらば
すなわち 住にあらずと為せばなり

それは何故かというと
とらわれている という事は
とらわれていない という事だからだ






ぜこ ぶっせつ
是故 佛説
ぼさっしん
菩薩心
ふおう じゅうしきふせ
不應 住色布施

これ故に 仏は説きたもう
「    菩薩は心     
    まさに色に住して 布施すべからず」と

だから 如来は
「 求道者は とらわれることなく
 施しをしなければならない
形 声 香り 触れられるモノ 心の対象に

とらわれることなく
施しをしなければならない 」
と説かれたのだ






しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

さらにまた スブーティよ





ぼさっ いりやく いっさい しゅじょう
菩薩 爲利益 一切 衆生
こ おう にょぜ ふせ
故 應 如是 布施

菩薩は 一切衆生に利益を為さんとす
故に まさにかくの如く布施すべし

実に 求道者は
生きとし生けるモノの為に
このような施しを与えなければならない






にょらい せつ
如來 説
いっさい しょそう そくぜ ひそう
一切 諸相 即是 非相

如来は 説けり
一切の諸相は すなわち是れ 相に非ず と

それは なぜかというと スプーティよ
この 生きモノという想いは
“想いでないという事”に
他ならないからだ






うせつ いっさいしゅじょう
又説 一切衆生
そく ひしゅじょう
即 非衆生

また 一切衆生は
すなわち 衆生に非ず と説けり

このように
如来が 生きとし生けるモノと説かれた
これらのモノどもは
実は 生きたモノではない






しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

それは何故かというと スブーティよ





にょらい ぜ
如來 是

如来は 是れ

如来というのは・・





しん ごしゃ
眞 語者

真を語る者なり

真実を語る者であり





じつ ごしゃ
實 語者

実を語る者なり

真理を語る者であり





にょ ごしゃ
如 語者


如を語る者なり

ありのままに語る者であり





ふおう ごしゃ
不誑 語者

を語る者なり

あやまりなく語る者であるからだ





ふい ごしゃ
不異 語者

不異を語る者なり

如来は いつわりを語る者ではないのだ





しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

さらに また スブーティよ





にょらい しょとく ほう
如來 所得 法
しほう むじつ むこ
此法 無實 無虚

如来の得る所の法
この法には 実も無く 虚も無し

実に 如来が現に
悟られ 示され 想い巡らされた 法の中に
真理も虚妄も無い






しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

スブーティよ これを例えるなら
たとえ眼があったとしても
暗闇の中に入った人が
何も見えないようなものである






にゃく ぼさつ
若 菩薩
 しんじゅう おほう
 心住 於法 
にぎょう ふせ
而行 布施

もし 菩薩が
心を法に住せしめて
布施を行ずれば

物事の中に堕ちこんでいる
(または物事に心をとらわれている)
求道者も
このように見るべきである






にょにん にゅうあん
如人 入闇

そくむ しょけん
即無 所見

人 闇に入り
すなわち 見るところ無きが 如し

彼らは 物事の中に堕ちこんだまま
施しを与えている






にゃく ぼさつ
若 菩薩
 しん ふじゅうほう にぎょう ふせ
心 不住法 而行 布施

もし菩薩にして
心を法に住せしめずして 布施を行ぜば

スブーティよ
またこれを 例えて言うと






にょ にんうもく にっこう みょうしょう 
如 人有目 日光 明照
けん しゅじゅしき
見 種種色

人の目有りて 日光明らかに照して
種種の色を見るが如し

眼を持つ人が
夜が明け 太陽が昇った時に
色々な彩りを
見ることが出来るようなモノである
物事の中に堕ちこまない求道者も
このように見るべきである
彼らは 物事の中に堕ちこまずに
施しを与えている





しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

さて スブーティよ





とう らいしせ
當 來之世
にゃくう ぜんなんし ぜんにょにん
 若有 善男子 善女人

まさに 来るべき世に
もし 善男子・善女人 有りて

じつに
立派な若者たちや 立派な娘たちが






のうお しきょう じゅぢ どくじゅ
能於 此經 受持 讀誦

能くこの経を 受持し 読誦するならば

この法門(仏の教え)をとりあげて
記憶し となえ 理解し
他の人々に詳しく説いて聞かせるとする






そくい にょらい いぶつ ちえ
即爲 如來 以佛 智慧
しっち ぜにん
悉知 是人
しっけん ぜにん
悉見 是人

すなわち為に 如来は仏の智慧を以て
悉(ことごと)く 是の人を知り
悉(ことごと)く 是の人を見る

スプーティよ
如来は 目覚めた人の智慧で
こういう人々を
知っているし
見ているし
悟っている






かいとく じょうじゅ
皆得 成就
むりょう むへん くどく
無量 無邊 功徳

皆 成就することを 得ん
無量 無辺の 功徳を

スプーティよ
これら人々は 全て
計り知れず 数え切れない福徳を積み
自分のものとするに違いないのだ





十五





しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

また実に スブーティ






にゃくう ぜんなんし ぜんにょにん
若有 善男子 善女人

若し 善男子 善女人 有りて

女なり 男なりが居て






しょにちぶん
初日分
い ごうがしゃ とうしん ふせ
以 恒河沙 等身 布施


初めの日分に
恒河の沙(すな)に等しき 身を以て 布施し

午前中に

ガンジス河の砂の数ほど
身体を捧げたとする






ちゅうにちぶんぶ
中日分復
い ごうがしゃ とうしん ふせ
以 恒河沙 等身 布施


中の日分にもまた
恒河の沙に等しき身を以て布施し

同じように 昼間にも
ガンジス河の砂の数ほど
身体を捧げたとする






ごにちぶんやく
後日分亦
いごうがしゃ とうしん ふせ
以恒河沙 等身 布施

後の日分にもまた
恒河の沙に 等しき身を以て 布施し

夕刻にも
ガンジス河の砂の数ほど
身体を捧げたとする






にょぜ むりょう
如是 無量
ひゃくせんまんのく こう いしん ふせ
百千萬億 劫 以身 布施


かの如く無量の
百千萬億のの 身を以て 布施せんに

この方法で
無限に長い間 身体を捧げたとしても






にゃくぶ うにん
若復 有人
もんし きょうでん
聞此 經典
しんじん ふぎゃく
信心 不逆

もしまた 人有りて
この経典を聞き
信心して 逆(さか)らわざれば

この法門(仏の教え)を聞き
法門を謗(そし)らなければ






ごふく しょうひ
其福 勝彼


その福は 彼に勝れたり

こちらの方が

より多く
計り知れない程の

数え切れない程の
福徳を積むことになる






がきょう
何況
しょしゃ じゅぢ どくじゅ
書寫 受持 讀誦
いにん げせつ
爲人 解説

いかに況(いわ)んや
書写し 受持し 読誦し
人の為に 解説せんをや

もちろん
書き写し 学び 記憶し となえ 理解し

他の人々に 詳しく説いて聞かせるのなら
尚更である





しゅぼだい いよう ごんし
須菩提 以要 言之


須菩提よ 要を以って 之を言わば

さらにまた スブーティよ 実に






ぜきょう う 
是經 有
ふかしぎ ふかしょうりょう むへん
不可思議 不可稱量 無邊
くどく
功徳

この経には
不可思議 不可称量 無辺
功徳 有り

この法門(仏の教え)は
不可思議で 比べるモノがない






にょらい い ほつ だいじょうしゃ せつ
如來 爲 發 大乘者 説


如来は 大乘を発す者の 為に説き

スブーティよ
如来は この法門(仏の教え)を
この上ない道に向かう人の為に
説かれた






いほつ さいじょう じょうしゃ せつ
爲發 最上 乘者 説


最上乘を発す者の為に 説けり

最も勝れた道に向かう人々の為に
説かれた






にゃくうにん
若有人
 のうじゅぢ どくじゅ
能受持 讀誦
こうい にんせつ
廣爲 人説

もし人有りて
能く受持し 読誦し
広く 人の為に説かば

ある人々は この法門(仏の教え)をとりあげ

記憶し となえ 理解し
他の人々に詳しく説いて聞かせるだろう






にょらい
如來
しっち ぜにん
悉知 是人
しっけん ぜにん
悉見 是人

如来は
悉く是の人を知り
悉く是の人を見る

如来は 目覚めた人の智慧で
こういう人を知っている
スブーティよ
如来は 目覚めた人の眼で
こういう人々を見ているし
悟っているのだ






かいとく じょうじゅ
皆得 成就
 ふかりょう ふかしょう むうへん ふかしぎ
不可量 不可稱 無有邊 不可思議
くどく
功徳


不可量 不可称にして 辺有ること無き
不可思議の
功徳を 成就するを 得ん

これら すべての人々は
計り知れない福徳を
積んだことになるだろう
不可思議で

比べるものなく
限りなく無量の
福徳を積んだことになるだろう





にょぜ にんとう
如是 人等
そくい かたん にょらい
即爲 荷擔 如來
あのくたらさんみゃくさんぼだい
阿耨多羅三藐三菩提

かくの如きの人らは
すなわち 如来の
阿耨多羅三藐三菩提
荷担すと為す

スブーティよ
これら すべての人々は
この上なく正しい完全なる悟りの智慧を
自らの肩で 荷うだろう






がいこ しゅぼだい
何以故 須菩提


何を以ての故に 須菩提よ

それは何故かというと スブーティよ





にゃく ぎょう しょうほうしゃ ぢゃく
若 樂 小法者 著
がけん にんけん
我見 人見
しゅじょうけん じゅしゃけん
衆生見 壽者見

もし 小法を樂(ねが)ふ者は
我見 人見
衆生見 寿者見に
著す

この法門(仏の教え)を
信じられない人々 会得できない人々は
聞くことが出来ないからである
自己に対する執着の見解ある人
他人に対する執着の見解ある人
生命に対する執着の見解がある人
霊魂に対する執着の見解ある人
このような人々は 聞くことが出来ない






そくお しきょう ふのう
即於 此經 不能
ちょうじゅ どくじゅ
聽受 讀誦
いにん げせつ
爲人 解説

すなわち この経において
聴受読誦
人の為に解説すること
能はず

求道者の誓いを立て得ないモノは
この法門(仏の教え)を
聞いたり 取り上げたり
記憶したり となえたり
理解したりすることが 出来ない
そのような道理は ありえない






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

けれども さらにまた スブーティ





ざいざい しょしょ にゃくう しきょう
在在 處處 若有 此經

在在処処に もし この経有らば

実に どのような地域でも
この経が説かれる地域というのは






いっさい せけん てん にん あしゅら
一切 世間 天 人 阿修羅
 しょおう くよう
 所應 供養

一切 世間の 天 人 阿修羅の
応に供養すべき所なり

神々と人間とアスラらを含む 世界が
供養すべき場所になるだろう





とうち ししょ
當知 此處
そくい ぜとう
即爲 是塔
かいおう くぎょう さらい いにょう
皆應 恭敬 作禮 圍繞
いしょ げこう にさん ごしょ
以諸 華香 而散 其處

まさに知るべし この処は
すなわち これを塔と為し
皆まさに恭敬作礼囲繞
諸々の華香を以て その処に散ずべき事を

その地域は
右回りに礼拝され(右遶三匝)
最高の礼が尽くされるだろう
最大の尊敬を払われるべき

塔廟にも等しい場所となるだろう




十六






ぶし しゅぼだい
復次 須菩提

また次に 須菩提よ

けれども スブーティ






にゃく ぜんなんし ぜんにょにん
若 善男子 善女人
じゅぢ どくじゅ しきょう
受持 讀誦 此經

もし善男子 善女人が
この経を受持し 読誦し

立派な若者たちや 立派な娘たちが
このような経典を取り上げ
記憶し となえ 理解して
十分に想い巡らし

他の人々に詳しく説き聞かせたとしても





にゃく いにん きょうせん
若 爲人 輕賤

もし 人の為に 軽賤せらるるときは

そういう人たちが 辱められたり
著しく辱められたりすることが
あるかもしれない






ぜにん せんせ ざいごう
是人 先世 罪業
おう だ あくどう
應 墮 惡道

この人 先の世の罪業にて
まさに悪道に堕つべきを

これは何故かというと
このような人達は
前世で 罪の報いに導かれるような
幾多の汚れた行為をしていたが






い こんせ にんきょうせん こ
以 今世 人輕賤 故


今の世に 人に軽賤せらるる故を以って

この現世で 辱められる事で





せんせ ざいごう そくい しょうめつ
先世 罪業 即爲 消滅

先の世の罪業 すなわち 消滅せられ

前世の不浄な行いを
償(つぐな)う事になり
・・





とうとく
當得
あのくたらさんみゃくさんぼだい
阿耨多羅三藐三菩提

まさに
阿耨多羅三藐三菩提
得べし

目覚めた人の この上ない悟りを
得るようになる






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

それは何故かというと
スブーティ





がねん
我念
かこ むりょう あそうぎ こう
過去 無量 阿僧祇 劫

我れ念(おも)う
過去の 無量の 阿僧祇

私はありありと思い出す
数え切れないほど 無限の昔に






お ねんとうぶつ ぜん
於 然燈佛 前


然燈仏の前において

ディーパンカラ(Dīpaṃkara)という
如来・尊敬されるべき人・
正しく目覚めた人が居られ





とくち はっぴゃく しせん まんのく
得値 八百 四千 萬億
なゆた しょぶつ
那由他 諸佛

八百四千万億 那由他の諸仏に
値(あ)うことを得て

それよりも前  より以前には
八十四の百千億兆倍もの 数限りない
目覚めた人々が 居られたコトを






しっかい くよう じょうじ
悉皆 供養 承事
む くうかしゃ
無 空過者

ことごとく皆 供養し 承事
空しく過ごす者 無かりしことを

私は これらの人々に仕え 喜ばせた
仕えて喜ばせるということを
やめることは なかった
スプーディよ
私は これらの目覚めた人・世尊らに
仕えては 喜ばせ 仕えては 喜ばせた
そのように 休むことはなかったが・・






にゃくぶ うにん おご まつせ
若復 有人 於後 末世

もし復た 人ありて 後の末世において

後の時世になり 第二の五百年代の
正しい教えが滅びる頃に






のう じゅうぢ どくじゅ しきょう
能 受持 讀誦 此經
しょとく くどく
所得 功徳

能く 此の経を 受持し 読誦し
得るところの功徳に対し

このような経典をとりあげ
記憶し となえ 理解し
他の人々に詳しく説いて聞かせる者が
あるとすれば






おがしょ くよう しょぶつ くどく
於我所 供養 諸佛 功徳

ひゃくぶん ふぎゅう いち
百分 不及 一


我が 諸仏を供養するところの功徳は
百分の一にも及ばず

スプーディよ また じつに
こちらの福徳の積み方に比べると
前の福徳の積み方は

その百分の一にも 及ばない





せんまんのくぶん
千萬億分
 ないし
乃至
さんじゅ ひゆ
算數 譬喩
しょふのうぎゅう
所不能及

千万億分
乃至
算数 譬喩
及ぶ能わざるところなり

千分の一にも 百千分の一にも
億分の一にも 百億分の一にも
百千億の一にも 百千億兆分の一にも
及ばない
数量にも 区分にも 計算にも
譬喩にも 類比にも 相似にも
堪えることが出来ない






しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

また スブーティ





にゃく ぜんなんし ぜんにょにん
 若 善男子 善女人
おご まつせ
於後 末世
う じゅぢ どくじゅ しきょう
有 受持 讀誦 此經
しょとく くどく
所得 功徳
が にゃく ぐせつしゃ
我 若 具説者

もし善男子・善女人
後の末世において
この経を受持し読誦するもの有りて
得るところの功徳を
我れもし 具(つぶ)さに説かば

もし私が
これらの
立派な若者たちや 立派な娘たちが
積む福徳について 説明したならば
これらの
立派な若者たちや 立派な娘たちが
どれだけ 福徳を積んで
身につけるかを 聞けば




わく う にんもん
或 有 人聞
しんそく
心即
おうらん こぎ ふしん
狂亂 狐疑 不信

或いは 人聞いて
心 すなわち
狂乱し 狐疑して 信ぜざること
有らん

人々は
気が変になったり
心が散乱したりするだろう






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

さてまた スブーティ






とうち
 當知
ぜ きょうぎ ふかしぎ
是經義 不可思議
かほう やく ふかしぎ
果報 亦 不可思議

まさに知るべし
この経のは 不可思議にして
果報も亦た 不可思議なり

実に
この法門(仏の教え)は
不可思議・無比であると
如来は説かれたが
その酬(むく)いも
不可思議・無比だと
期待されるのだ




十七





にじ しゅぼだい
爾時 須菩提
びゃくぶつごん
白佛言

その時 須菩提は
仏に白(もう)して言わく

その時 スブーティ長老は
師に向かって次のように問うた




せそん ぜんなんし ぜんにょにん ほつ
世尊 善男子善女人
あのくたらさんみゃくさんぼだいしん
阿耨多羅三藐三菩提 心

世尊よ 善男子・善女人ありて
阿耨多羅三藐三菩提へ心を発するに

師よ 求道者の道に進んだモノは




うんが おうじゅう
云何 應住
うんが ごうぶく ごしん
云何 降伏 其心

云何(いか)んが まさに住すべきや
云何(いか)んが 其の心を降伏すべきや

どのように生活・行動し
どのように心を保てばよいのでしょう?




ぶつごう しゅぼだい
佛告 須菩提


仏は 須菩提に告げたもう


師は答えられた スブーティよ




ぜんなんし ぜんにょにん ほつ
善男子 善女人
あのくたらさんみゃくさんぼだい しんしゃ
阿耨多羅三藐三菩提 心者

善男子・善女人にして
阿耨多羅三藐三菩提の心を発せし者は

ここに 求道者の道に進んだ者は




とうしょう にょ ぜしん
當生 如 是心


まさに かくの如き心を生ずべし

次のような心を 起こすべきである




がおう めつど いっさい しゅじょう
我應 滅度 一切 衆生

我れまさに一切衆生を滅度せしむべし


すなわち
私は 生きとし生けるモノを
汚れのない永遠の平安という境地に
導き入れなければならない




めつど いっさい しゅじょう い
滅度 一切 衆生 已

一切衆生を 滅度し 已(おわ)りて

それに加え
このように生きとし生けるモノを
永遠の平安な境地に導き入れたとしても




に むう いっしゅじょう じつ めつどしゃ
而 無有 一衆生 實 滅度者

しかも 一の衆生も 実には
滅度する者 有ること無し と

実は 誰一人として
永遠の平安な境地に
導きいれられるモノ(実体)など
無い と




がいこ しゅぼだい
何以故 須菩提


何を以ての故に 須菩提よ

それは何故かというと スブーティよ




にゃく ぼさっう
若 菩薩有
がそう にんそう
我相 人相
しゅじょうそう じゅしゃそう
衆生相 壽者相
そく ひぼさつ
即 非菩薩

もし菩薩に
我相と人相と
衆生相と寿者相あらば
すなわち菩薩に非ず

もし求道者が
自我があるという想いを
起こすなら
もはや 求道者とは 言えない
他人があるという想い
生命があるという想い
霊魂があるという想い
などを起こしたりするモノは
求道者とは言えないからだ




しょい しゃが しゅぼだい
所以 者何 須菩提


所以(ゆえん)は 如何に 須菩提よ

それは何故かというと スブーティ




じつ むうほう ほつ
實 無有法 發
あのくたらさんみゃくさんぼだい しん しゃ
阿耨多羅三藐三菩提 心 者


実に法として
阿耨多羅三藐三菩提の心を
発する者
有ること無し

「 求道者の道に向かった人 」という
モノ(固定的な実体)は
 何も存在しないからだ




しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何


須菩提よ 意において 云何(いか)に

スブーティよ どう思うか




にょらい を ねんとうぶつしょ
如來 於 然燈佛 所
う ほうとく
有 法得
あのくたらさんみゃくさんぼだい ふ
阿耨多羅三藐三菩提 不


如来の然燈仏の所において
法として
阿耨多羅三藐三菩提を得たるもの
有るや いなや

如来が
ディーパンカラ(Dīpaṃkara)如来の
御もとで
この上ない正しい悟りを
悟ったという事柄(固定的な実体)が
何かあるのだろうか




ほっちゃ せそん
不也 世尊
にょ がげ ぶっしょ せつぎ
如 我解 佛所 説義
ぶつを ねんとうぶっしょ むう ほうとく
佛 於 然燈佛 所 無有 法得
あのくたらさんみゃくさんぼだい 
阿耨多羅三藐三菩提


いななり 世尊よ
我れ 仏の説きたもう所の義を 解する如きは
仏は然燈仏の所において法として
阿耨多羅三藐三菩提を得たるもの
有ること無し

このように問われた時
スプーディ長老は師に向かい
次のように答えた
私が師がおっしゃった言葉の意味を
理解している限りでは
如来が
尊敬されるべき人・正しく目覚めた人
ディーパンカラ(Dīpaṃkara)如来の
御もとで
この上ない正しい悟りを
現に悟られたという事柄(実体)は
何も有りません




ぶつごん にょぜ にょぜ しゅぼだい
佛言 如是 如是 須菩提


仏は言いたもう
かくの如し かくの如し 須菩提よ

このように言われた時
師は スブーティ長老に向かって
このように言われた
そのとおりだ スプーディよ
そのとおりだ




じつ むう ほう にょらい とく
實 無有 法 如來 得
あのくたらさんみゃくさんぼだい 
阿耨多羅三藐三菩提


実に 法として 如来の 阿耨多羅三藐三菩提を得たるもの 有ること無し

如来が
尊敬されるべき人・正しく目覚めた人
ディーパンカラDīpaṃkara如来
の御もとで
この上ない 正しい悟りを
現に悟られたという事柄(実体)は
何も無いのだ




しゅぼだい にゃく うほう にょらい とく 
須菩提 若 有法 如來 得
あのくたらさんみゃくさんぼだい しゃ
阿耨多羅三藐三菩提 者

須菩提よ もし法として
如来の阿耨多羅三藐三菩提を得たるもの
有りとせば

スブーティよ
もし如来が現に悟られた(実体としての)法が
何かあるとするなら




ねんとうぶつ そく ふよが じゅうき
然燈佛 即 不與我 受記
にょ お らいせ とうとく さぶつ
汝 於 來世 當得 作佛
ごう しゃかむに
號 釋迦牟尼


然燈仏はすなわち 我に受記をあたえ
「 汝は 来世において まさに仏になることを得て 釈迦牟尼号すべし 」とは
せざりしならん

ディーパンカラ(Dīpaṃkara)如来が
私に対して
「 若者よ あなたは未来の世に
シャーキヤムニ(Śākyamuni釈迦族の聖者)
という名の如来・尊敬されるべき人・
正しく目覚めた人となるだろう 」
などと  
予言するコトは なかっただろう




い じつ むう ほうとく
以 實 無有 法得
あのくたらさんみゃくさんぼだい 
阿耨多羅三藐三菩提

実に 法として 阿耨多羅三藐三菩提を
得るもの 有ること無きを 以て

けれども スプーディよ
今 如来・尊敬されるべき人・
正しく目覚めた人が
この上ない正しい悟りとして
現に悟られた法(実体)など
何も無いのだから




ぜこ ねんとうぶつ
是故 然燈佛
よが じゅき さ ぜごん
與我 受記 作 是言

この故に 然燈仏
我に受記をあたえ の言を作(な)す

だからこそ
私は ディーパンカラDīpaṃkara如来により




にょ を らいせ とうとく
汝 於 來世 當得
さぶつ ごう しゃかむに
作佛 號 釋迦牟尼

「 汝は 来世において まさに 仏となることを得て 釈迦牟尼と号すべし 」と

「 若者よ あなたは未来の世に
シャーキヤムニ(Śākyamuni釈迦族の聖者)
という名の如来・尊敬されるべき人・
正しく目覚めた人となるだろう 」
と 予言されたのだ




がいこ
何以故

何を以ての故に

それは何故かというと スプーディよ




にょらい しゃそく しょほう にょぎ
如來 者 即 諸法 如義

如来とは すなわち

諸法は 如なりとの義なればなり

如来というのは
永久不変の真理(bhūta-thatā真如)の
異名なのだ

スプーディよ

如来というのは
生ずる滅するという「現象」ではなく
常住不変で 根本的な
「存在の本質」の本質の異名であり
存在の断絶の異名であり
究極的に不生であるということの
異名なのだ

それは何故かというと
スプーディよ

生ずることが無いというコトが
最高の真理であるからだ




にゃく うにん ごん にょらい とく
若 有人 言 如來 得
あのくたらさんみゃくさんぼだい
阿耨多羅三藐三菩提
しゅぼだい
須菩提

もし人有りて 如来は
阿耨多羅三藐三菩提を得たもうと言わんも
須菩提よ

スプーディよ
もし誰かが
「 如来・尊敬されるべき人・
正しく目覚めた人が
この上ない正しい悟りを
   現に悟られた  」と
このように言ったとすると




じつ むう ほう ぶつとく
實 無有 法 佛得
あのくたらさんみゃくさんぼだい
阿耨多羅三藐三菩提

実に 法として

仏の阿耨多羅三藐三菩提を得たるもの
有ること無し

その人は 誤りを言ったコトになる

彼は真実では無いことに 執着し
私を謗(そし)っているコトことになる




しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

それは何故かというと スブーティ




にょらい しょとく
如來 所得
あのくたらさんみゃくさんぼだい
阿耨多羅三藐三菩提

如来の 得るところの
阿耨多羅三藐三菩提は

如来が
この上もない正しい悟りを
現に悟ったという(実体としての)事柄は
何も無いからだ




を ぜちゅう むじつ むこ
於 是中 無實 無虚


この中において 実も無く 虚も無し


また スプーディよ
如来が現に悟り示された法には
真実も無ければ 虚妄も無い




ぜこ にょらい せつ
是故 如來 説
いっさいほう かいぜ ぶっぽう
一切法 皆是 佛法

この故 如来は
一切の法は 皆な是れ 仏法なりと説く

それだから 如来は
「 あらゆる法は 目覚めた人の法である 」
と説くのだ




しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

それは何故かというと スブーティ




しょごん いっさい ほうしゃ
所言 一切 法者
そく ひいっさい ほう
即 非 一切 法

言うところの 一切の法は
すなわち 一切の法に 非ず

「  あらゆる法というものは 
  実は法(実体)ではない 」と
如来によって説かれているからだ




ぜこ みょう いっさい ほう
是故 名 一切 法

これ故に 一切法と名(なづ)くるなり

それだからこそ(現象として)
「あらゆる法」と言われるのだ




しゅぼだい ひにょ にんしん ちょうだい
須菩提 譬如 人身 長大

須菩提よ 譬(たと)えば
人身(にんしん)の長大なるが如し

たとえば スブーティ
身が整えられ 身(徳)の大きな人が
在ると言うようなものだ




しゅぼだい ごん せそん
須菩提 言 世尊

須菩提 言わく 世尊よ

スブーティ長老は言った 師よ




にょらい せつ にんしん ちょうだい
如來説 人身 長大
そくい ひだいしん ぜみょう だいしん
即爲 非大身 是名 大身

如来の人の身の長大なりきと
説きたまえるは すなわち大身に非ずと為す
これを大身と名(なづ)く

「 身体が整い 身体(身徳)の大きな人と
説かれた彼の人は
実は 身体(という実体)の無い人である 」
と如来は説かれました
それだからこそ(現象として)
身体の大きな人と言われるのです




しゅぼだい ぼさっ やく にょぜ
須菩提 菩薩 亦 如是

須菩提よ 菩薩もまた かくの如し

師は言われた
スブーティよ そのとおりだ




にゃく さ ぜごん
若 作 是言
がとう めつど むりょう しゅじょう
我當 滅度 無量 衆生
そく ふみょう ぼさっ
即 不名 菩薩

もし この言を作(な)し
「 我れまさに 無量の衆生を
   滅度せしむべし 」とせば
すなわち
菩薩と名(なづ)けざるなり

もし ある求道者が
「 私は生きとし生けるものどもを
   永遠の平安な境地に導くだろう 」と
このように言ったとすれば
その人を
求道者だと言うコトは出来ない




がいこ しゅぼだい
何以故 須菩提

何を以っての故に 須菩提よ

それは何故かというと スブーティ




じつ むう ほうみょう い ぼさつ
實 無有 法名 爲 菩薩

実に法として 名(なづ)けて
菩薩と為すもの 有ること無ければなり

一体
彼の求道者と名づけられるようなモノが
何かあるのだろうか?

スプーディは 答えた

師よ そうではありません
彼の求道者と名づけられるような
(固定的な)モノなど 何もありません




ぜこ ぶっせつ いっさい ほう
是故 佛説 一切 法
むが むにん むしゅうじょう むじゅしゃ
無我 無人 無衆生 無壽者

これ故 仏は
「 一切の法には 我も無く 人も無く 衆生も無く 寿者も無く 」と説けるなり

師は言われた
スプーディよ
「 生きているモノというのは 実は
生きているモノ(という実体)では無い」と
如来は言っている
それだからこそ(現象として)
生きているモノだと 言われるのだ
だから
「   すべてに     
自我 他人 生命 霊魂
   などというモノは無い 」
 と、如来は言っている




しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

スブーティ




にゃく ぼさつ さぜごん
若 菩薩 作是言
がとう しょうごん ぶつど
我當 莊嚴 佛土

もし菩薩にして この言を作(な)し
「 我れ まさに 仏土を莊嚴すべし」とせば

もし ある求道者が
私は国土の建設をなしとげるだろう と
このように言ったとすれば




ぜ ふみょう ぼさつ
是 不名 菩薩


これを 菩薩と名(なづ)けず

この人も また同様に
求道者ではないと言わなければならない




がいこ
何以故


何を以ての故に

それは何故かというと スプーディよ




にょらい せつ しょうごん ぶつど しゃ
如來 説 莊嚴 佛土 者
そくひ しょうごん
即非 莊嚴

如来は「 仏土を莊嚴すと言うは
すなわち莊嚴に非ず 」と 説けばなり

国土の建設と言うのは
建設(という固定的実体)でないことだ と
如来が 説いているからだ




ぜ みょう しょうごん
是 名 莊嚴


これを莊嚴と名(なづ)くるなり

それだからこそ(現象として)
国土の建設 と言われるのだ




しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

スブーティ




にゃく ぼさつ つうだつ むがほうしゃ
若 菩薩 通達 無我法者


もし菩薩にして
無我の法に 通達する者 あるときは

もし求道者が
モノには自我(という実体)など無いと
信じ 理解したとすれば




にょらい せつ みょう しんぜ ぼさつ
如來 説 名 眞是 菩薩


如来は 説いて
真に是れ 菩薩と名(なづ)けたり

如来・尊敬されるべき人
・正しく目覚めた人は
その人を
求道者・すぐれた者であると 説く



十八





しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何

須菩提よ 意において いかに

師は問われた
スブーティよ どう思う




にょらい う にくげん ふ
如來 有 肉眼 不


如来に 肉眼有りや いなや

如来には
肉眼が有るだろうか





にょぜ せそん
如是 世尊

にょらい う にくげん
如來 有 肉眼

かくの如し 世尊
如来に肉眼有り

スプーディは答えた
師よ そのとおりです
如来には

肉眼が あります





しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何


須菩提よ 意において いかに

師は問われた
スブーティよ どう思う






にょらい う てんげん ふ
如來 有 天眼 不


如来に 天眼有りや いなや

如来には
全てを見通せる目が あるだろうか





にょぜ せそん
如是 世尊

にょらい う てんげん
如來 有 天眼

かくの如し 世尊
如来に 天眼 有り

スプーディは答えた
師よ そのとおりです
如来には

全てを見通せる目が有ります




しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何


須菩提よ 意において いかに

師は問われた

スブーティよ どう思うか




にょらい う えげん ふ
如來 有 慧眼 不


如来に 慧眼 有りや いなや

如来には
物事の本質を見抜く眼が 有るだろうか






にょぜ せそん
如是 世尊

にょらい う えげん
如來 有 慧眼

かくの如し 世尊
如来に 慧眼 有り

スプーディは答えた
師よ そのとおりです
如来には

物事の本質を見抜く眼が有ります





しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何


須菩提 意において いかに

師は問われた
スブーティよ どう思うか






にょらい う ほうげん ふ
如來 有 法眼 不


如来に 法眼有りや いなや

如来には 衆生を済度するための
物事の真相を正しく見極める眼が
有るだろうか






にょぜ せそん
如是 世尊
にょらい う ほうげん
如來 有 法眼

かくの如し 世尊
如来に 法眼有り

スプーディは答えた
師よ そのとおりです
如来には 衆生を済度するために
物事の真相を正しく見きわめる
眼が有ります






しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何


須菩提 意において いかに

師は問われた
スブーティよ どう思う






にょらい う ぶつげん ふ
如來 有 佛眼 不


如来に 仏眼有りや いなや

如来には
覚めた人の眼が有るだろうか






にょぜ せそん
如是 世尊

にょらい う ぶつげん
如來 有 佛眼

かくの如し 世尊 如来に仏眼あり

スブーティは答えた
師よ そのとおりです
如来には

目覚めた人の眼が有ります





しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何


須菩提よ 意に於いて いかに

師は問われた
スブーティよ どう思う




にょ ごうがちゅう しょうしゃ
如 恒河中 所有沙
ぶっせつ ぜしゃ ふ
佛説 是沙 不

恒河の中の あらゆる沙
仏は是の沙の如く 説けるや いなや

ガンジス河の大河に在る限りの砂
その砂を 如来は説いたのだろうか






にょぜ せそん
如是 世尊


かくの如し 世尊よ

スプーディは答えた
師よ そのとおりです
幸ある人よ そのとおりです





にょらい せつ ぜしゃ
如來 説 是沙


如来は この沙を説きたまえり

如来は その砂を 説かれました





しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何


須菩提よ 意において いかに

師は問われた
スブーティよ どう思う




にょ いちごうがちゅう しょうしゃ う
如 一恒河中 所有沙 有
にょぜ しゃとう ごうが
如是 沙等 恒河

一恒河の中のあらゆる沙の如き
かくの如き 沙に等しき 恒河有り

ガンジス河にある限りの砂の数ほど
ガンジス河があり






ぜ しょごうが しょう しゃしゅ
是 諸恒河 所有 沙數
ぶっせかい にょぜにょう いた ふ
佛世界 如是寧 爲多 不

この諸々の恒河のあらゆる沙の数
仏の世界有らんに かくの如きを
むしろ 多しと為すやいなや

それらの中にある
砂の数だけ世界があるとすれば
その世界は多いだろうか






じんた せそん
甚多 世尊


はなはだ多し 世尊よ

スブーティは答えた
師よ そのとおりです
幸ある人よ そのとおりです
それらの世界は 多いでしょう





ぶつごう しゅぼだい
佛告 須菩提


仏は須菩提に告げたもう

師は言われた スブーティよ






にしょ こくどちゅう しょう しゅじょう
爾所 國土中 所有 衆生
にゃくかん しゅうしん にょらい しっち
若干 種心 如來 悉知

そこばくの国土中の あらゆる衆生の
若干種の心を 如来は悉く知りたまふ

これらの世界にある限りの生きモノたちの
種々様々な心の流れを 私は知ってるのだ





がいこ
何以故

何を以ての故に

それは何故かというと
スプーティよ





にょらい せつ しょしん かいい ひいしん
如來 説 諸心 皆爲 非心
ぜみょう いしん
是名 爲心

如来は諸々の心を説きて
皆な 非心と為せばなり
これを名づけて心と為す

「   心の流れというのは    
(固定的実体としての)流れでは無い」

と如来は説かれている
だからこそ(現象として)
心の流れと言われるのだ





しょい しゃが しゅぼだい
所以 者何 須菩提


所以(ゆえん)は 如何に 須菩提よ

それは何故かというと スブーティよ





かこしん ふかとく
過去心 不可得


過去心も 不可得

過去の心は とらえようがない





げんざいしん ふかとく
現在心 不可得

現在心も 不可得

現在の心は とらえようがない





みらいしん ふかとく
未來心 不可得


未来心も 不可得なればなり

未来の心は
とらえようがないからない

だからだ




十九






しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何

須菩提よ 意において いかに

スブーティよ どう思う





にゃく う にん まん
若 有 人 滿
さんぜん だいせん せかい
三千 大千 世界
しつぽう い よう ふせ
七寶 以 用 布施

もし人有りて
三千大千世界に満たすに
七宝を以ってし 用いて布施せんに

立派な若者や 立派な娘が
この果てしなく広い宇宙を
(金・銀・瑠璃などの)七つの宝で満たし
如来・尊敬されるべき人・
正しく目覚めた人々に 施したとする






ぜにん いぜ いんねん
是人 以是 因縁

とくふく たふ
得福 多不

この人は この因縁を以て
福を得ること 多きやいなや

その立派な若者や立派な娘は
そのことで
多くの福徳を積んだことになるだろうか






にょぜ せそん
如是 世尊
しにん いぜ いんねん
此人 以是 因縁
とくふく じんた
得福 甚多

かくの如し 世尊よ この人は
この因縁を以って
福を得ること 甚だ多し

スプーティは答えた
師よ 多いですとも
幸ある人よ 多いですとも






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

師は言われた そのとおりだ
スプーティよ そのとおりだ
立派な若者や 立派な娘は そのことで
多くの功徳を積むことになるのだ
それは何故かというと スプーティよ






にゃく ふくとく うじつ にょらい
若 福徳 有實 如來
ふせつ とく ふくとく た
不説 得 福徳 多

もし福徳に 実有らば 如来は
福徳を得ること多しとは 説かず

功徳を積むということは
積まないということだと
如来が説いているからだ






い ふくとく むこ
以 福徳 無故
にょらい せっとく ふくとく た
如來 説得 福徳 多

福徳無きを以っての故に
如来は福徳を得ること 多しと説けり

スプーティよ
もしも 功徳を積むという
(固定された)事柄があるとすれば
如来は「 功徳を積む 」とは
説かなかっただろう





二十





しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何

須菩提よ 意において いかに

スブーティよ どう思う






ぶっ かい ぐそく しきしん
佛 可以 具足 色身

けんふ
見不

仏は色身具足せるを以て
見るべきや いなや

如来を
端麗な身体を完成しているモノとして
見るべきであろうか






ほっちゃ せそん
不也 世尊


いななり 世尊よ

スプーティは答えた
師よ そうではありません






にょらい ふおう
如來 不應

い ぐそく しきしん けん
以 具足 色身 見

如来はまさに
色身を具足せるを以て 見るべからず

如来を
端麗な身体を完成しているモノとして 
見るべきではありません






がいこ
何以故


何を以ての故に

それは何故かというと
師よ





にょらい せつ
如來 説
ぐそく しきしん
具足 色身
そくひ ぐそく しきしん
即非 具足 色身

如来は 色身を具足すというは
すなわち 色身を具足するに非ず
と 説かれたればなり

端麗な身体を完成し備えてるというのは
実は 備えていないという事である
と 如来が説かれているからです






ぜ みょう ぐそく しきしん
是 名 具足 色身


これを 色身を具足すると
名づくるなり

だからこそ(現象として)
端麗な身体を完成している

と言われるのです




しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何


須菩提よ 意において いかに

師は問われた スブーティよ どう思うか





にょらい かい ぐそく しょそう
如來 可以 具足 諸相

けんふ
見不

如来は 諸相を具足せるを以って
見るべきや いなや

如来は 特徴を備えたモノだと
見るべきだろうか






ほっちゃ せそん
不也 世尊


いななり 世尊

スプーティは答えた
師よ そうではありません






にょらい ふおう
如來 不應

い ぐそく しょそう けん
以 具足 諸相 見

如来は まさに
諸相を具足せることを以て
見るべからず

如来は特徴を備えたモノだと
見なしてはならないのです






がいこ
何以故


何を以ての故に

それは何故かというと 師よ





にょらい せつ しょそう ぐそく
如來 説 諸相 具足
そくひ ぐそく
即非 具足

如来は
諸相を具足するというは 即ち具足に非ず
と 説きたまふゆえに

如来が説かれた
特徴を備えているというのは 実は
特徴を備えていないということだ

と如来が おっしゃったからです




ぜ みょう しょそう ぐそく
是 名 諸相 具足


これを諸相を 具足すと 名づく

それだからこそ(現象として)
「特徴を備えている」と言われるのです





二十一





しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

師は問われた
スブーティよ どう思う





にょ もっちぃ にょらい さ ぜねん
汝 勿謂 如來 作 是念
が とう うしょ せつぽう まくさ ぜねん
我 當 有所 説法 莫作 是念

汝は 如来はこの念を作(な)し
「 我れは まさに説くところの法
有るべし 」と
謂(おも)ふこと勿(なか)れ
是の念を作(な)す勿(なか)れ

「私が法を教え示した」というような考えが
如来に起こるだろうか
スプーティは答えた
師よ そうではありません
「私が法を教え示した」というような考えが
如来に 起こることはありません






がいこ にゃく にんごん にょらい
何以故 若 人言 如來
うしょ せっぽう そく い
有所 説法 即爲
ほうぶつ ふのう げ がしょせっ こ
謗佛 不能 解 我所説 故

何を以ての故に
もし人「 如来の説くところの法有り 」と
言はば すなわち
仏を謗(そし)ることと為ればなり
我が説くところを解すること
能わざる故なり

師は言われた
スプーティよ
「 如来は法を教え示した 」と
このように説く者があるとすれば
彼は誤りを説くことになる
スプーティよ
彼は
真実でないものに執着しているモノであり
私を けなすモノである






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

それは何故かというと
スプーティよ





せっぽう しゃ むほう かせつ
説法 者 無法 可説
ぜみょう せっぽう
是名 説法

法を説くとは
法として説くべきもの無ければなり
これを法を説くと名くるなり

「 法の教示 」と言うけれども
法の教示として認められるような事柄は
何も存在しないからだ






にじ えみょう しゅぼだい
爾時 慧命 須菩提
びゃくぶつごん
白佛言

その時 慧命の須菩提は
仏に白(もう)して言わく

このように言われた時
スブーティ長老は 師に向かって
次のように問うた






せそん
世尊
はう しゅじょう
頗有 衆生
を みらい せ もんぜっ ぜほう
於 未來 世 聞説 是法
しょう しんじん ふ
生 信心 不

世尊よ
すこぶる衆生ありて
未来の世において この法を説くを聞きて
信心を生ずるや いなや

師よ
これから先 後の世になり
第二の五百年代の正しい教えが滅びる頃
このような法を聞いて
信じる人々が
果たして 居るでしょうか






ぶつごん しゅぼだい
佛言 須菩提


仏は言いたもう 須菩提よ

師は 答えられた スブーティよ







ひ しゅじょう
非 衆生

ひふ しゅじょう
非不 衆生

彼は
衆生に非ず
衆生ならざるモノにも非ず

彼らは
“生きているモノ”でもなければ
“生きているモノでないモノ”でもない






がいこ しゅぼだい
何以故 須菩提


何を以ての故に 須菩提よ

それは何故かというと スブーティよ





しゅじょう しゅじょう しゃ
衆生 衆生 者
にょらい せっ ぴ しゅじょう
如來 説 非 衆生

衆生 衆生 とは
如来は 衆生に非ずと 説きたまえり

「  生きているモノ 生きているモノ
というモノは全て
生きているモノ(という実体)ではない 」

と 如来が説かれているからだ





ぜ みょう しゅじょう
是 名 衆生


これを衆生と名づく

だからこそ(現象として)
生きているモノと言われるのだ





二十二






しゅぼだい びゃくぶつごん
須菩提 白佛言

須菩提は 仏に白(もう)して言わく

スブーティよ どう思う
如来が
この上ない正しい悟りを悟ったというような

コト(固定的実体)が
何かあるだろうか






せそん
世尊

ぶっとく
佛得
あのくたらさんみゃくさんぼだい
阿耨多羅三藐三菩提
いむ しょとく や
爲無 所得 耶

世尊よ
仏の 阿耨多羅三藐三菩提を 得たもうは
得るところ無しと為すや

スプーティ長老は 答えた
師よ そういうことはありません
如来が
この上ない正しい悟りを悟られたというような

コト(固定的実体)は 何もありません





ぶつごん
仏言
にょぜ にょぜ しゅぼだい
如是 如是 須菩提


かくの如し かくの如し 須菩提よ

師は言われた

そのとおりだ スブーティよ そのとうりだ





が を あのくたらさんみゃくさんぼだい
我 於 阿耨多羅三藐三菩提
ないし むう しょうほう かとく
乃至 無有 少法 可得

我れ 阿耨多羅三藐三菩提において
乃至 少しの法 得べきモノ 有ること無し

微塵ほどの事柄も
そこには 存在しないし
認められはしない






ぜ みょう
是 名
あのくたらさんみゃくさんぼだい
阿耨多羅三藐三菩提

これを阿耨多羅三藐三菩提と名づくるなり

だからこそ(現象として)
この上ない正しい悟りと言われるのだ





二十三





ぶし しゅぼだい
復次 須菩提

また次に 須菩提よ

さらにまた スブーティ






ぜほう
是法
びょうどう むう こうげ
平等 無有 高下


この法は
平等にして 高下有ること無し

実に その法は
平等であり そこに いかなる差別もない





ぜ みょう
是 名
あのくたらさんみゃくさんぼだい
阿耨多羅三藐三菩提

これを
阿耨多羅三藐三菩提と
名づく

だからこそ(現象として)
この上ない正しい悟り と言われるのだ








むが むじん
無我 無人

むしょじゅう むじゅしゃ
無衆生 無壽者

我も無く 人も無く
衆生も無く 寿者も無き
を以って

この“この上ない正しい悟り”は
自我が無い と言う事により
他人が無い と言う事により
個体が無い と言う事により
個人が無い と言う事により
平等であり・・





しゅ いっさい ぜんぽう
修 一切 善法
そくとく
即得
あのくたらさんみゃくさんぼだい
阿耨多羅三藐三菩提

一切の善法を修むれば
すなわち
阿耨多羅三藐三菩提を得るなり

あらゆる善の法によって
現に 悟る事ができるのだ






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

それは何故かというと
スブーティよ





しょごん ぜんぽう しゃ
所言 善法 者
にょらい せつ そくひ ぜんぽう
如來 説 即非 善法

言うところの善法とは 如来は
善法に非ずと 説きたればなり

「   善の法というのは   
  法(という実体)ではない  」

と 如来は説いているからだ





ぜ みょう ぜんぽう
是 名 善法


これを 善法 と名づくるなり

だからこそ(現象として)
善の法と言われるのだ





二十四






しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

さらにまた

スブーティ





にゃく さんぜん だいせん せかい ちゅう
若 三千 大千 世界中
しょう しょ しゅみせん のう
所有 諸 須彌山 王

もし 三千大千世界の中の
あらゆる 諸々の 須彌山王の

実に 一人の女 あるいは 一人の男が
この果てしなく広い宇宙にある限りの
山々の王スメールの数ほどの・・






にょぜ とう しつぽう じゅ
如是 等 七寶 聚
うにん じよう ふせ
有人 持用 布施

かくの如きに等しき 七宝の聚(あつ)まりを
人有りて 持用(もっ)て 布施するに

(金・銀・瑠璃などの)
七つの宝を集め持ち
それを
如来・尊敬されるべき人・
正しく目覚めた人々に施したとしても






にゃく にん いし はんにゃはらみっきょう
若 人 以此 般若波羅蜜經
ないし しくげ とう
乃至 四句偈 等

もし 人 此の般若波羅蜜経の
乃至 四句の偈等を 以って

他方で
立派な若者や あるいは 立派な娘が
この智慧の完成という法門から
四行詩一つでも取り出し・・






じゅじ どくじゅ い たにん せつ
受持 讀誦 爲 他人 説

受持し 読誦し 他人の為に 説くに

他の人々に説いたとすれば





をぜん ふくとく
於前 福徳
ひゃくぶん ふぎゅう いっ
百分 不及 一

前における福徳は
百分の一にも及ばず

スプーティよ
前の方の功徳の積み方は
こちらの方の功徳の積み方に比べると
その百分の一にも及ばないし・・






ひゃくせんまんのくぶん
百千萬億分
ないし
乃至
さんじゅ ひゆ しょ ふのう ぎゅう
算數 譬喩 所 不能 及

百千萬億分
乃至
算数 譬喩の及ぶ能わざる 所なり

(似てる・似てないなどと 思う)
類似すら 堪えることができない





二十五





しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何

須菩提よ 意において云何(いか)に

スブーティよ どう思う





にょとう もっちぃ にょらい さ ぜねん 
汝等 勿謂 如來 作 是念
が とうど しゅじょう
我 當度 衆生

汝等は 如来是の念を作(な)し
「我れまさに 衆生を度すべし」とすと
謂(おも)ふことなかれ

「 私は生きているモノどもを救った 」
という想いが 如来に起こるだろうか





しゅぼだい まくさ ぜねん
須菩提 莫作 是念


須菩提よ
この念を 作(な)すこと 莫(なか)れ


スブーティよ しかし
このように見なしてはならないのだ






がいこ
何以故


何を以ての故に

それは何故かというと スプーティよ





じつ むう しゅじょう にょらい どしゃ
實 無有 衆生 如來 度者


実に 衆生として 如来の度すべき者
有ること無ければなり

如来が救ったというような生物は
何も無いからである
また スプーティよ






にゃく う しゅじょう にょらい どしゃ
若 有 衆生 如來 度者

もし 衆生として
如来の度せる者 有りとせば

如来が救ったというような生物が
何かあるとすれば




にょらい そくう
如來 即有
が にん しゅじょう じゅしゃ
我 人 衆生 壽者

如来には すなわち
我 人 衆生 寿者 有らん

如来に
自我・他人・生命・霊魂に対する
執着があることになる






しゅぼだい
須菩提
にょらい せつ
如來 説
うがしゃ そく ひうが
有我者 即 非有我

須菩提よ
如来は「我れ有というは
すなわち 我れ有るに非ず」と説けり

スブーティよ
「 自我に対する執着とは
執着が無いということだ 」と
如来は説かれた






に ぼんぷしにん いい うが
而 凡夫之人 以爲 有我


しかも 凡夫の人は
我れ有と 以爲(おも)えり

しかし
かの愚かな 一般の人たちは
それに執着するのだ






しゅぼだい
須菩提
ぼんぷしゃ にょらい せつ
凡夫者 如來 説
そく ひぼんぷ
即 非凡夫
ぜみょう ぼんぷ
是名 凡夫

須菩提よ
凡夫というは 如来は
すなわち 凡夫に非ずと説けり
是を凡夫と名づく

スブーティよ 
「 愚かな一般の人たちというのは
愚かな一般の人たちでは無いというコトに 他ならない 」

と 如来は説いた
だからこそ
愚かな一般の人達と言われるのだ





二十六






しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何

須菩提 意において いかに

スブーティよ どう思う




か い さんじゅうに そう かん にょらい ふ
可 以 三十二 相 觀 如來 不


三十二相を以て如来を観るべきやいなや

如来は 特徴を備えたモノであると
見るべきだろうか





しゅぼだい ごん にょぜ にょぜ
須菩提 言 如是 如是
い さんじゅうにそう かん にょらい
以 三十二相 觀如來

須菩提 言わく かくの如し かくの如し
三十二相を以て 如来を観たてまつらん

スブーティは答えた
師よ そうではありません
私が 師がおっしゃった言葉の意味を
理解している所によれば
如来を 特徴を備えたモノだと
見てはなりません






ぶつごう しゅぼだい にゃく
佛告 須菩提 若
いさんじゅうにそう かん にょらい しゃ
以三十二相 觀 如來 者

仏は言いたもう 須菩提よ
もし 三十二相を以って
如来を 観るというならば

師は 言われた
まことに まことに スブーティ
そのとおりだ
あなたの言うとおりだ そのとおりだ
如来を 特徴を備えたモノだと
見てはならないのだ






てんりん しょうおう
轉輪 聖王

そく ぜ にょらい
即 是 如來

転輪聖王
すなわち これ 如来ならん

それは何故かというと スプーティよ
もし 如来が特徴を備えたモノだと
見ることが出来るというなら
( 古代インドの伝説上の理想的国王で
 三十二種のすぐれた特徴がある )
転輪聖王:Cakravarti-rājanもまた
如来であると言うことになるだろう
だから
如来を 特徴を備えたモノであると
見てはならないのだ






しゅぼだい びゃくぶつごん
須菩提 白佛言


須菩提は 仏に白(もう)して言わく

スブーティ長老は
師に向かって次のように言った






せそん
世尊
にょがげ ぶっしょせつぎ
如我解 佛所説義


世尊よ
我れ 仏の説きたまうところの義を
解する如くんば

師よ
私が師がおっしゃった言葉の意義を
究めたところによると






ふおう い さんじゅうにそう
不應 以 三十二相
かん にょらい
觀 如來

まさに 三十二相を以て
如来を 観たてまつるべからず

如来を 特徴を備えたモノだと
見てはならないのです






にじ せそん
爾時 世尊

にせつ げごん
而説 偈言

その時 世尊は
を説いて 言いたもう

さて この折に 師は
次のような詩を 歌われた






にゃく いしき けんが
若 以色 見我


もし 色を以て 我れを見

色や形によって
私(如来)を見ようとしたり






いおんじょう ぐが
以音聲 求我

音声を以て 我れを求む

声によって
私(如来)を求めるモノは






ぜにんぎょう じゃどう
是人行 邪道


この人は 邪道を行ずる者

間違った努力に
ふけるモノである






ふのうけん にょらい
不能見 如來

如来を見ること 能はざるなり

かの人たちは
私(如来)を見ないのだ
目覚めた人々(如来ら)は
法によって見られるべきである
諸々の師(如来)たちは
法を身とするのだから
(間違ったままでは)
法の本質は 知られない
知ろうとしても 知られない





二十七






しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

スブーティよ どう思う





にょ にゃく さ ぜねん にょらい
汝 若 作 是念 如來
ふ い ぐそくそう こ とく
不 以 具足相 故
あのくたらさんみゃくさんぼだい
得 阿耨多羅三藐三菩提

汝 もし この念を作(な)さん
如来は 相を具足するを以っての故に
阿耨多羅三藐三菩提を得るにあらず と

特徴を備えているコトで
如来は この上ない正しい悟りを
現に悟ったのだろうか






しゅぼだい まくさ ぜねん
須菩提 莫作 是念

須菩提よ この念を作(な)すこと莫れ

けれども スプーティよ
あなたは そのように見てはならない
それは何故かというと スプーティよ






にょらい ふ い ぐそくそうこ とく
如來 不 以 具足相故 
あのくたらさんみゃくさんぼだい
阿耨多羅三藐三菩提

如来は 相を具足せるを以っての故に
阿耨多羅三藐三菩提を得るにあらず と

特徴を備えていることによって
如来が この上ない正しい悟りを
現に悟ったというコトは 無いからだ






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

さらにまた スブーティ





にょ にゃく さ ぜんねん
汝 若作 是念
ほつ あのくたらさんみゃくさんぼだい しんじゃ
發 阿耨多羅三藐三菩提 心者
せっ しょほう だんめっそう
説 諸法 斷滅相
まくさ ぜねん
莫作 是念

汝 もし この念を 作(な)さん
阿耨多羅三藐三菩提心を発する者は
諸法断滅の相ありと説かれたり と
この念を 作(な)すこと莫れ

実に 誰かが
求道者の道に向かう者には
何かの法が滅んだり
断ち切られたりするようになっていると
このように言うかもしれない
けれども
スプーディよ
このように見てはならない






がいこ
何以故


何を以ての故に

それは何故かというと





ほつ あのくたらさんみゃくさんぼだい しんじゃ
發 阿耨多羅三藐三菩提 心者
を ほう ふせつ だんめっそう
於法 不説 斷滅相


阿耨多羅三藐三菩提心を発する者は
法において 断滅の相ありとは
説かざればなり

求道者の道に向かうモノは
いかなるモノであっても
滅びたり
断ち切られたりするように
なっていないからだ





二十八






しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

さらにまた スブーティ





にゃく ぼさっ い まん ごうがしゃ
若 菩薩 以 滿 恒河沙
とうせかい しつぽう じよう ふせ
等世界 七寶 持用 布施

もし 菩薩にして
恒河の沙に等しき世界に満たすに
七宝を以ち 持用(もっ)て 布施せんに

実に立派な若者や立派な娘が
ガンジス河の砂の数だけの世界を
(金・銀・瑠璃などの)七つの宝で満たし
 それを如来・尊敬されるべき人・
正しく目覚めた人に施したとしよう






にゃく ぶ う にん
若復 有人
ち いっさい ほう むが
知 一切 法 無我
とくじょう をにん
得成 於忍

もしまた 人有りて
一切の法は無我なりと知りて
忍を成(じょう)ずることを 得たりとせんに


他方で
法には 自我というものが無く
生ずるということも無い
ということを求道者が認め
受け入れることが出来たとき






し ぼさっ しょう ぜん ぼさつ
此 菩薩 勝 前 菩薩
しょとく くどく
所得 功徳

この菩薩は
前の菩薩の得るところの功徳に勝れたり


この(後者の)方が
そのことによって
計り知れず 数え切れないほどの
更に多くの
功徳を積んだことになるだろう






がいこ しゅぼだい
何以故 須菩提
 い しょぼさつ
以 諸菩薩
ふじゅう ふくとく こ
不受 福徳 故

何を以ての故に 須菩提よ
諸々の菩薩は
福徳を受けざるを 以っての 故なり

けれども
また じつに スブーティ
求道者・すぐれた人は
積んだ功徳を
自分のモノにしては ならないのだ






しゅぼだい びゃくぶつごん
須菩提 白佛言


須菩提は 仏に白(もう)して言わく

スブーティ長老は たずねた





せそん うんが ぼさつ ふじゅ とくふく
世尊 云何 菩薩 不受 福徳


世尊よ いかなれば
菩薩は福徳を受けざるや

師よ
求道者は 積んだ功徳を
自分のモノにすべきでは ないのですか






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

師は答えられた スブーティよ





ぼさつ しょさ ふくとく
菩薩 所作 福徳
ふおう とんぢゃく
不應 貪著

菩薩は作(な)すところの福徳に
まさに貪著すべからず


自分のモノにすべきであるけれども
固執(執着)すべきではない






ぜこ せつ ふじゅ ふくとく
是故 説 不受 福徳


この故に 福徳を受けずと 説けるなり

だからこそ
「 自分のものにすべきである 」
と 言われるのだ





二十九






しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

さらにまた スブーティ





にゃく うにん ごん
若 有人
にょらい
如來
にゃくらい にゃくこ
若來 若去
にゃくざ にゃくが
若坐 若臥

もし 人有りて
如来は
もしくは来る もしくは去る
もしくは坐す もしくは臥す
と言はば

実に もしも
如来は去る
あるいは来たる あるいは住する
あるいは坐る あるいは床に臥す
と 誰かがこのように説いたとき





ぜにん ふげ
是人 不解
がしょ せつぎ
我所 説義


この人は
我が説くところの義を
解せざるなり

スプーティよ
その人は 私が語った言葉の意味を
理解していないのだ






がいこ
何以故


何を以ての故に

それは何故かというと





にょらい しゃ
如來 者
むしょ じゅうらい
無所 從來
やく む しょこ
亦 無 所去

如来は 従来するところも無く
また 去るところも無し

如来と言われるモノは
どこへも去らないし
どこからも来ない
だからだ





こ みょう にょらい
故 名 如來


故に 如来と名づくればなり

それだからこそ
如来であり
尊敬されるべき人であり
正しく目覚めた人である
と言われるのだ





三十






しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

さらにまた スブーティ






にゃく ぜんなんし ぜんにょにん
若 善男子 善女人


若し 善男子・善女人有りて

実に 立派な若者や立派な娘が





い さんぜん だいせん せかい
以 三千 大千 世界
すいい みぢん
碎爲 微塵

三千大千世界を以って
碎いて微塵と為さんに

例えば
この果てしない宇宙にある限りの大地の
埃(ほこり)の数だけの世界を
無数の努力で
素粒子の集合体のような粒にした場合






おい うんが
於意 云何


意において いかに

スプーティよ どう思う





ぜ みぢん しゅ
是 微塵 衆

にょう いた ふ
寧 爲多 不

この微塵衆は
寧ろ 多しと為すや いなや

その素粒子の集合体は
多いであろうか






しゅぼだい ごん
須菩提 言
じんた せそん
甚多 世尊

須菩提 言わく
甚だ多し 世尊よ

スプーティは答えた
師よ そのとおりです
幸ある人よ そのとおりです
その素粒子の集合体は 多いです






がいこ
何以故


何を以ての故に

それは何故かというと





にゃく ぜ みぢん しゅ じつうしゃ
若 是 微塵 衆 實有者


若し この微塵衆が 実有ならば

師よ もし素粒子の集合体が
実有だとすれば






ぶっ そく ふせつ
佛 即 不説

ぜ みぢん しゅ
是 微塵 衆

仏は すなわち
これを 微塵衆
と 説きたまわず

師は
素粒子の集合体と
説かれなかったでしょう






しょい しゃが
所以 者何


所以(ゆえん)は 如何に

それは何故かというと





ぶっ せつ
佛 説
みぢんしゅ そくひ みぢんしゅ
微塵衆 即非 微塵衆

仏は
微塵衆は すなわち微塵衆に非ず
と 説きたまへればなり

師よ
如来の説かれた
かの素粒子の集合体は 集合体では無い

と  如来が説かれているからです





ぜ みょう みぢんしゅ
是 名 微塵衆


これを 微塵衆と 名づく

だからこそ
”素粒子の集合体” と言われるのです






せそん
世尊
にょらい しょせつ
如來 所説
さんぜん だいせん せかい そくひ せかい
三千大千世界 即非 世界

世尊よ
如来の説きたもうところの
三千大千世界は すなわち 世界に非ず

また 如来は
如来が説かれた 果てしない宇宙は
宇宙ではない
と 説かれています






ぜ みょう せかい
是名 世界


これを 世界と 名づく

だからこそ
”果てしない宇宙” と言われるのです





がいこ
何以故


何を以ての故に

それは何故かというと
師よ





にゃく せかい じつうしゃ
若 世界 實有者
そく ぜ いちごうそう
即 是 一合相

もし 世界 実有ならば
すなわち これ  一合相にして

もし宇宙というモノがあるとすれば
”全一体という執着”
が あることになりましょう


※一合相
①種々の物が融合し一つの姿となること
②全てを一つの全体と見なし
それが実体であると執着すること





にょらい せつ
如來 説
いちごうそう そくひ いちごうそう
一合相 即非 一合相

如来は説かれたり
一合相はすなわち一合相に非ず と

「 如来が説かれた  全一体という執着は
  実は執着ではない  」

と 如来は 説かれています





ぜみょう いちごうそう
是名 一合相

これを 一合相と 名づくるなり

だからこそ
全一体という執着
と 言われるのです





しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

師は言われた
スブーティよ





いちごうそう しゃ
一合相 者

そくぜ ふかせつ
即是 不可説

一合相とは
すなわち 是れ 説くべからず

”全一体という執着”は
言葉で実現できないモノ
クチで言えないモノである
それは
“モノ” でもないし
“モノでないモノ”でもない






たん

ぼんぷ しにん とんぢゃく ごじ
凡夫 之人
 貪著 其事

ただし 
凡夫の人は 其の事に貪著

それは 愚かな一般の人々が
執着するモノである





三十一






しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

それは何故かというと
スブーティ






にゃく にんごん ぶっせつ
若 人言 佛説
がけん にんけん
我見 人見
しゅじょうけん じゅしゃけん
衆生見 壽者見

もし 人
「    仏は     
我見 人見 衆生見 寿者見を
    説きたもう    」
と言わば

「 自我についての見解  
他人についての見解
生命に付いての見解
霊魂についての見解
  を 如来は説いたのだ  」
  と 誰かが説いたとしよう






しゅぼだい おい うんが
須菩提 於意 云何
ぜにん
是人
げ がしょ せつぎ ふ
我所 説義 不

須菩提よ 意において いかに
この人は
我が説くところの義を 解せるやいなや

スブーティよ
その人は
正しく説いたことになるだろうか






ほっちゃ せそん
不也 世尊
ぜにん ふかい
是人 不解
にょらい しょせつ ぎ
如來 所説 義

いななり 世尊よ
この人は 解せざるなり
如来の説きたまうところの義を

スプーティは答えた
師よ そうではありません
幸ある人よ そうではありません
その人は
正しく説いたことになりません






がいこ
何以故

何を以ての故に

それは何故かというと
師よ





せそん せつ
世尊 説
がけん にんけん
我見 人見
しゅじょうけん じゅしゃけん
衆生見 壽者見
 そくひ
即非
がけん にんけん
我見 人見
しゅじょうけん じゅしゃけん
衆生見 壽者見

世尊は
我見 人見
衆生見 壽者見は
すなわち
我見 人見
衆生見 壽者見に非ず
と 説かれたればなり

如来の説かれた
かの自我についての見解は
見解ではない
と 如来が説かれているからです






ぜみょう
是名
 がけん にんけん
我見 人見
しゅじょうけん じゅしゃけん
衆生見 壽者見

是れを
我見 人見
衆生見 壽者見
と 名づくるなり

だからこそ
“自我についての見解”
と 言われるのです






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

師は言われた
スブーティよ
実に そのとおりだ






ほつ あのくたらさんみゃくさんぼだい
發 阿耨多羅三藐三菩提
しん じゃ
心 者

阿耨多羅三藐三菩提の
心を発する者は

求道者の道に進んだ者は





をいっさいほう
於一切法
おう にょぜ ち
應 如是 知
にょぜ けん
如是 見
にょぜ しんげ
如是 信解
ふしょう ほうそう
不生 法相

一切の法において
まさに かくの如く知り
かくの如く見
かくの如く信解して
法相を生ぜざれ

すべての事柄を
知らなければならないし
見なければならない
理解しなければならない
しかも
事柄という想いにさえ 留まらないよう
知らなければならないし
見なければならないし
理解しなければならない






しゅぼだい
須菩提


須菩提よ

それは何故かというと
スブーティ





しょごん ほうしょうしゃ
所言 法相者
にょらい せつ そくひ  ほうそう
如來 説 即非 法相

言うところの法相とは
如来は すなわち 法相に非ずと 説けり

“事柄という想い”というのは
実は想いではない
と 如来が説かれたからだ






ぜみょう ほうそう
是名 法相

これを法相と名づく

だからこそ
事柄という想い
と 言われるのだ






三十二





しゅぼだい
須菩提

須菩提よ

さらに また
スブーティ





にゃく うにん
若 有人
いまん むりょう あそうぎ せかい
以滿 無量 阿僧祇 世界
しっぽう ぢよう ふせ
七寶 持用 布施

もし人有りて
無量 阿僧祇の世界を満たすに
七宝を以ち持用(もっ)て布施せんに

実に 求道者・すぐれた人が
計り知れないほど 数え切れないほどの世界を
(金・銀・瑠璃などの)七つの宝で満たし
諸々の如来・尊敬されるべき人・
正しく目覚めた人に 施したとしよう






にゃくう ぜんなんし ぜんにょにん
若有 善男子 善女人
ほつ ぼだい しんしゃ
發 菩薩 心者

もし 善男子・善女人に有りて
菩薩の心を発し

また他方で 立派な若者や立派な娘が





ぢ を しきょう
持 於 此經

ないし しくげ とう
乃至 四句偈等

この経において
乃至四句の偈等を持して

この智慧の完成という法門(仏の教え)から
四行詩一つ 取り上げ






じゅぢ どくじゅ
受持 讀誦

いにん えんぜつ
爲人 演説

受持し 読誦し
人の為に演説したりとせんに

記憶し となえ 理解し
他の人々に詳しく 説いて聞かせるのなら





ごふく しょうひ
其福 勝彼

その福は 彼に勝れたり

この(後者の)方が
計り知れない程
数え切れない程
より多くの
功徳を 積むことになる






うんが
云何
いにん えんぜつ
爲人 演説

いかにして
人の為に演説するや

では どうのように
説いて聞かせるべきかと言えば






ふしゅ おそう
不取 於相

にょにょ ふどう
如如 不動

相を取らざれば
如如にして不動なり

説いて聞かせないようにすればよい





がいこ
何以故


何を以ての故に

だからこそ
説いて聞かせる
と 言われるのだ






いっさい ういほう
一切 有爲法


一切の 有爲法

(因縁により 生まれ滅する)
現象の世界というのは






にょ む げん ほう よう
如 夢 幻 泡 影
にょ ろ やく にょ でん
如 露 亦 如 電

夢 幻 泡 影の如く
露の如く 亦た 電の如し

星・眼のかすみ・ともし火
幻影・露・水泡
夢・雷・ 雲
のようなモノ





おうさ にょぜかん
應作 如是觀


まさに かくの如くき観を作(な)すべし

そのようなモノと 見るがよい






ぶつせつ ぜきょう い
佛説 是經 已


仏は この経を説き已(おわ)りたまえり

師は このように説かれた





ちょうろう しゅぼだい
長老 須菩提
ぎゅう しょ

びく びくに
比丘 比丘尼
うばそく うばい
優婆塞 優婆夷

長老の須菩提
及び 諸々の
比丘比丘尼
優婆塞・優婆夷

スブーティ上座は歓喜した
そして これらの
修行僧や尼僧たち
在家の信者や信女たち






いっさい せけん
一切 世間

てん にん あしゅら とう
天 人 阿修羅 等

一切の世間の
天 人 阿修羅などは

また これらの求道者たちや
神々や人間や
 アスラ(asura)
ガンダルヴァ(gandharva)たちを含む
世界の多くの人たちは






もん ぶっ しょせつ
聞 佛 所説
かい だいかんぎ
皆 大歡喜


仏の説きたまうところを聞きて
皆 大いに歓喜し

師の説かれたことを
讃えたという






しんじゅ ぶぎょう
信受 奉行
こんごう はんにゃ はらみっ きょう
金剛 般若 波羅蜜 經

金剛般若波羅蜜経を
信受奉行せり

切断するものとしての金剛石
聖なる 尊ぶべき
智慧の完成 終わる







明石の禅寺 大蔵院
経典 記事一覧


般若心経(大本・小本)梵語

観音経
延命十句観音経

大悲呪
開甘露門

舎利礼文
証道歌

消災呪
仏頂尊勝陀羅尼

中峰和尚座右の銘
興禅大燈国師遺戒

白隠禅師坐禅和讃
雲水和讃





金剛経と禅宗

金剛経は
南都六宗の三論宗・法相宗や
平安二宗の天台宗・真言宗
などで扱われます
.
特に 臨済宗・黄檗宗・曹洞宗など
禅の系統では 重要視されています
.
インドから中国に禅を伝えた
菩提達磨大師は
楞伽経:りょうがきょう
Laṅkāvatāra Sūtra
というお経を重視していたため
中国の禅宗は当初
楞伽宗:りょうがしゅう
と呼ばれていました
.
達磨大師から数えて五代目
五祖 弘忍禅師
六代目で中国禅を完成されたとされる
六祖 慧能禅師
あたりから
金剛経を重視するようになりました
.
この『金剛経』にまつわる話として、
中国禅宗の六祖、慧能大師(638~713)の
因縁があげられます。

慧能大師が出家する前、
市中で薪を売っていたところ、一人の人が『金剛経』を読んでいるのを聞き、
心がたちまちカラリと開け(開悟)、
禅宗五祖の弘忍大師の門を
叩くきっかけになりました。
.

禅宗では特に重んじられる経典で、
午課で一日半分ずつ読みます。

臨黄ネット


金剛般若経は
日本人にも 多大な影響を与えています
.
銀閣寺を創建した 室町幕府八代将軍
足利義政 辞世の句
何事も 夢幻と思い知る
身には憂いも 喜びもなし
.
室町時代の武将
大内義隆 辞世の句
討つ者も 討たるる者も 諸ともに
如露亦如電 応作如是観
.
織田信長が好んだ
能の演目「敦盛」の一節
人間五十年 下天の内を くらぶれば
夢まぼろしの如くなり・・・
.
太閤 豊臣秀吉 辞世の句
露と落ち 露と消えにし 我が身かな
浪花のことは 夢の又夢


金剛経の影響を
これらの中に見ることが出来ます

応無所住而生其心
一切有為法
如夢幻泡影
という一節や

四字熟語の
夢幻泡影
泡沫夢幻
は、金剛経が典拠です



漢訳一覧


西域(亀茲国)出身の僧 鳩摩羅什
サンスクリットの原本の表題
  Vajra cchedikā-prajñāpāramitā Sūtra
金剛般若波羅蜜経と漢訳し
もっとも広く知られるようになりましたが
漢訳をされた人は 他にも居ます

以下に その漢訳タイトルを
一覧にしています


中国(北魏)を訪れたインド僧 菩提流支の訳
金剛般若波羅蜜経

中国(南朝梁)を訪れたインド僧 真諦の訳
金剛般若波羅蜜経

中国(唐)を訪れたインド僧善無畏の師である
達磨笈多の訳
金剛能断般若波羅蜜経

陸路でインドを訪れた中国()の僧 玄奘の訳
能断金剛般若波羅蜜多経(初回)
大般若波羅蜜多経(二回目)

海路でインドを訪れた中国()の僧 義浄の訳
仏説能断金剛般若波羅蜜多経
.
.

即非の論理

金剛経の特徴として良く挙げられるのが

A即非A
AはAでない

という即非の論理です

まるで禅問答のような表現が
度々現れ
読むものを惑わせます
.
様々な解説がありますが
当サイトでは
諸行無常
因縁によって起こる諸々の現象(行:Saṅkhāra)は
永続的でなく制滅変化し移り変わるもの(無常:anitya)
諸法無我
涅槃を含め、あらゆる事象(法:dharma)に
永遠不変の実体的存在(我:Ātman)というものは存在しない
を表現したものと解釈し
現代語訳をつけています






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般若心経
大悲呪
昔の本堂の様子と 新本堂を再建する様子

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