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涅槃会(ねはんえ)



涅槃経の概略


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涅槃会 概略


涅槃会は
お釈迦様入滅(にゅうめつ)
追悼(ついとう)するための
法会(ほうえ)です

涅槃講(ねはんこう)
涅槃忌(ねはんき)
仏忌(ぶっき)
常楽会(じょうらくえ)
などとも呼ばれます



お釈迦様の誕生を祝う
灌仏会
(または降誕会・花祭りの日)

お釈迦様が悟り開いたことを記念する
成道会(または臘八会)

そして
涅槃会を
三仏会(または三仏忌)と言います






お釈迦様の入滅は
ヴァイシャーカ(梵 Vaiśākha)の満月の日
と伝わっているものの

正確な月日は不明で
地域や宗派によって異なります

大乗仏教では
ヴァイシャーカ(梵 Vaiśākha)は
インドの暦の「第2の月」であるとして
涅槃会は
旧暦の2月15日に行われてきました

新暦が採用されている現在の日本では
新暦の2月15日に行われていますが

地域や宗派や 寺院によっては
旧暦の2月15日に近い
新暦の3月15日に
行われているところもあります


西行法師の有名な歌

願わくは花の下にて春死なん
その如月の望月の頃


(意訳)
願いが叶うのなら
春の桜の下で死にたいものだ
(お釈迦様が入滅されたという)
二月の 満月の頃に

如月とは旧暦の2月のこと
なので
如月の望月の頃とは
新暦でいうと
3月15日の頃になります



南伝仏教では
お釈迦様の生誕、成道,入滅などを
合せた祭典:ウェーサク祭
ウエサクウエサカVesak
が行われています





狂い咲き桜の写真


涅槃経の概略

お釈迦様の入滅の様子は
涅槃経(ねはんぎょう)という経典に
まとめらました

涅槃経というお経は
いくつもの種類があり
内容が前後したり
異なったりします


ここでは
岩波文庫から出ている
大パリニッバーナ経
Mahāparinirvāṇa-sūtraを元に

お釈迦様の入滅の様子を
おおまかに記します




マガダ国の首都 王舎城の北東にある
霊鷲山
お釈迦様が マガダ国の大臣から
相談を受けている場面から
始まります

大臣との会談を終えると
修行者たちに説法をした後
説法の旅に出ました

ナーランダ
パータリ村

ガンジス河を渡り
コーティ村
ナーディカ村
.
.
ペールヴァ村を訪れた時
雨季となり
雨季の定住(雨安居)を
とられました


続いて
商業都市ヴェーサーリー
訪れます

ヴェーサーリーでは
遊女アンバパーリーの林に留まり
アンバパーリーや
リッチャヴィ人との
やり取りが行われました

そして
この地で
お釈迦様は入滅を覚悟されました

覚悟したお釈迦様は
弟子のアーナンダに言いました
.
修行を完成した人は
もしも望むなら 寿命のあるかぎり
この世に留まる
あるいは
それ以上に留まることができるだろう
.
つまり
アーナンダよ
貴方が望めば
私の寿命は延びますよ
.
このように伝えたのですが
アーナンダは この時
マーラ(魔)に取り憑かれていて
ボーっとしていました
.
そのため
お釈迦様の延命を願いませんでした
.
.
しばらくして アーナンダが
その場を去ったとき
マーラ(魔)が姿を表し
すぐに入滅するよう勧めます

お釈迦様は
このように返答しました
.
慌てるな
私は3ヶ月後に涅槃に入るだろう
.
このように応えた お釈迦様は
こうして
自らの神通力で「命を保つ力」を
捨てさられたのでした




続いて訪れた
ペールヴァ村における
説法の中に
自灯明法灯明の教えがありました

自らを島とし、
自らをたよりとして、
他人をたよりとせず、
法を島とし、
法をよりどころとして、
他のものをよりどころとせざれ

この漢訳したものが
自灯明法灯明 ですが

これは
(洪水で流された時の)
「島・洲などの拠り所」という意味の
サンスクリット語
dvIpan(ローマ字表記)と

「灯明などの明かり」という意味の
サンスクリット語
dIpa(ローマ字表記)が

発音が近いために
自灯明法灯明と
漢訳されたものと推測されています


お釈迦様の
説法の旅は続きます

バンダ村
ハッティ村
アンバ村
ジャンブ村
ボーガ市
.
.
パーヴァーという土地に着いた時
純陀(チュンダ Cunda)から
施食の申し出を受けました

お釈迦様は答えます

チュンダよ
あなたの用意した料理の
スーカラ・マッダヴァ
(sūkara maddava)は
私にだけ給仕するようにし

弟子たちには
別の 硬い食べ物と 柔らかい食べ物を
給仕してください

そして
残ったスーカラ・マッダヴァは
穴に埋めるように

チュンダよ
神・魔・梵天・修行者・婆羅門の世界や
神ないし人間という生き物の中でも
この料理を食べて
正しく消化できる者を
如来の他に 私は知らない


このスーカラ・マッダヴァという料理は
キノコ料理とも 豚肉料理とも
言われています


お釈迦様はスーカラ・マッダヴァを
少しだけ食し 残りを穴に埋めさせ
他の者は 別の料理を食しました
.
.
腹痛と下痢と出血に苦しみながらも
お釈迦様は
再び 旅立ちました




旅路の途中で
マッラ族のブックサとの
交流があったり

クシナガラという場所が
臨終の地になるという
予言をされました

そして
供養の話がありました

供養の話とは
以下のようなものです

アーナンダよ
私の生涯で 二つの優れた供養があった
スジャーターとチュンダからの供養

この二つの供養の食物は
まさに等しい実り
まさに等しい果報がある

他の供養の食物よりも
はるかに優れた大いなる果報があり
はるかに優れた大いなる功徳がある

この言葉は
後になって人々が
チュンダを責めないようにするため
チュンダを配慮した言葉だと
されています

このため
数多くの涅槃経において
スジャーターとチュンダの供養は
等しく果報があるものと
記されています




ヒラヌヤヴァティー河のほとり
クシナガラに着きました

入滅の場所と予言された場所です

到着したお釈迦様は
2本並んだ娑羅(沙羅双樹)の木の下に
頭を北、顔を西に向け
右脇腹を下にした格好で
横たわりました

この時の様子を
漢文で現したのが
頭北 面西 右脇臥
(ずほく めんさい うきょうが)
です


この時
沙羅の樹々が
入滅を告げるために
一斉に花を咲かせ
白い花びらが舞い散りました

※ 白く枯れたと
記す経典もあります


お釈迦様は
大善見王の物語を語り
マッラ族への説法が行いました

また
遍歴行者のスパッダが訪れ
お釈迦様に帰依しました


長阿含経の遊行経では
この時
お釈迦様は
アーナンダ(阿難)尊者に
水が飲みたいと伝え
.
アーナンダ(阿難)尊者は
すぐに水を汲みに行きましたが
川が濁っており
キレイな水を得られませんでした
.
お釈迦様に伝えますが
再び 水を汲むように頼みます
このやり取りが
3回行われました
.
すると
3度目には 川が澄みわたり
キレイな水を得られたと言います
.
そして これが
末期の水(死に水)の
由来となりました



入滅の時の直前まで
説法は行われました

もろもろの事象は過ぎ去るものである
怠ることなく 修行を完成なさい

お釈迦様は
最後の説法を終えると
完全なる涅槃(無余涅槃)に
入られました



アヌルッダ(阿那律)尊者に促された
アーナンダ(阿難陀)尊者
クシナガラに住むマッラ族に
お釈迦様の入滅を告げると

マッラ族は
7日間 ご遺体を追悼しました

7日目に
ご遺体は
マッラ族の祠堂に移され
火葬(荼毘)されました

2025年現在
この場所は
ラーマバル・ストゥーパ(荼毘塔)
と呼ばれ
レンガ造りの仏塔
建てられています


その後
ご遺骨やご遺灰は
お釈迦様と縁のあった
マガダ国ヴェーサーリーなどの
諸国に分与されました


涅槃図(ねはんず)

お釈迦様の入滅の様子を描いた仏画を
涅槃図と言います

涅槃図にも
大小様々なものがあります

ここでは
涅槃会に描かれる事が多い題材を
解説します



満月
涅槃図の上部には
満月が描かれています

お釈尊様が入滅された時が
満月だったことを表しています



雲に乗った人々
絵の上部に 雲に乗った人たちがいます
十大弟子の一人 阿那律尊者
天界から摩耶夫人を先導しています

摩耶夫人は天人を引き連れています




錫杖と錦袋
沙羅の木の1つに
錫杖と錦袋が立てかけられて
描かれます

この錦袋については
2つの説があります

1つは
お釈迦様の衣鉢が入っている袋
とする説です

お釈迦様は説法を続けられ
旅の道中で
入滅されました

これが
錫杖と衣鉢袋を描くことによって
表現されています



もう1つは
薬が入った袋とする説です

摩耶夫人は
お釈迦様の延命を願い
延命の薬が入った袋を
錫杖にくくりつけ
投げたとするものです

そして
薬袋と錫杖は
木にもたれかかっています

これは
お釈迦様のもとに
薬が届かなかったことを
表しています

同時に
この薬袋がある木は
青々と描かれます

これは
薬の効果によるものだと
されています


この話には
続きがあります
それは・・

お釈迦様に届けようとして
ネズミが木に登ろうとした
というもの


ネズミが登ろうと木に近づいた時
猫が反射的に
ネズミを捕まえ
薬が届かなかったという話です

その為
涅槃図の下部には
多くの動物が描かれますが
猫が描かれることは
滅多にありません

それは
この話の原因だと言われています


ただし
薬袋の説は

江戸初期の
釈迦八相物語という大衆説話で
見られる話で

葛飾北斎が これを元に
釈迦御一代記図絵を描き
知られるようになったようです

参照 臨黄ネット WEB版 絵解き涅槃図





お釈迦様
中央に
宝台に横たわったお釈迦様が
ひときわ大きく描かれます

そして
金色が
使われることが少なくありません




8本の沙羅の樹
沙羅の木が 2本ずつ4組
計8本描かれています

沙羅の木は
緑色・白色・半々で描かれます

諸説ありますが
3つの説を紹介します


(その1)
8本とも緑
涅槃経に記された
「沙羅の木が白く変化したという」
話を表現しないパターンです


(その2)
4本は白 残りの4本は緑
お釈迦様が入滅する時
”沙羅の木が白く変色した”
という話が表現されています

それを
4本は白 もう4本は緑のままで
描いてます
.
これは
”白く変色した”を”枯れた”と捉え
お釈迦様の肉体は滅び
沙羅の樹も 枯れた
しかし
お釈迦様の教えは栄えるので
沙羅の木も 青々としている
とするものです
.
これを四枯四栄と言います
.
.
(その3)
八本とも白く描く
沙羅の樹が白くなった
という話を
白い花が咲いた
と表現するパターンです
.
.
この沙羅の樹が白く咲いたこと
由来するのが
鶴林(かくりん)という言葉で
.
白くなった沙羅の木々が
鶴に見えたことに由来します
.
鶴林という言葉は
やがて 転じて
お釈迦様の入滅を指したり
人が亡くなることを指したりします
更には
お寺や、お寺の樹林のことも
鶴林
と呼ばれるになりました


沙羅双樹の花の色、
盛者必衰(じょうしゃひつすい)の
理(ことわり)をあらわす

という平家物語の一説は
この場面のことです






お釈迦様の周りに集う多くの衆生
弟子や菩薩 天龍八部衆
在家の人から鬼・夜叉
動物 昆虫などが集っています

ここからは
これらの衆生について
見ていきます



菩薩
宝冠や瓔珞(ネックレス)
腕釧(ブレスレット)など
様々な装飾をつけているのが
菩薩様たちです

見分けるのは
主に宝冠のデザインです

宝冠に阿弥陀如来
観世音菩薩

宝冠に水瓶
勢至菩薩

ちなみに
観世音菩薩と勢至菩薩は
阿弥陀如来の脇侍なので
隣り合って描かれます

宝冠に五輪塔
弥勒菩薩

宝冠が五仏宝冠
右手に剣、左手に如意宝珠
虚空蔵菩薩

坊主頭で右手に錫杖
地蔵菩薩

多くの手があり法輪か宝珠を手にする者
如意輪観音





お釈迦様の足を撫でている老人
涅槃経の種類によって異なり
幾つか説があります

1つ目は
お釈迦様が 最後に得度させた
須跋陀羅(スバッダラ)とする説
この時120歳だったと言われています
40年以上の布教活動された釈迦様を
労っています


2つ目は
悟りを開く直前に乳粥供養をした
スジャーターだとする説です

お釈迦様が悟りを開く前に
出会った村娘を
老婆の姿で描くことで
50年という時間が
表現されています


3つ目は
欝婆尸女(ウパーシカー)する説
100歳を超える
女性 在家信者


他にも
訶迦葉尊者、羅漢、在家の翁など
色々な説があります



気絶した人
これは
悲しみのあまり気絶してしまった
阿難(アーナンダ)尊者です

十大弟子であり
お釈迦様とは 年の離れた従兄弟

常にお釈迦様に仕え
お釈迦様の言葉を最も多く聞き
多聞第一と称されました

容姿端麗、美男子だったと伝わるため
いかに美しい顔立ちで表現するかが
絵師の腕の見せどころです



阿那律尊者(アニルッダ)尊者
気絶した阿難尊者を解放している人は
阿那律尊者
(一節では)お釈迦様の従兄弟とされ
天眼第一と称される十大弟子の一人です

阿那律尊者は
涅槃図では二箇所に 描かれます
一つ目は
麻耶夫人を先導している姿
伝統的に この姿を
(阿那律:あなりつ)と呼びます
もう一つの
阿難尊者を介抱している姿は
阿泥樓駄:あぬるだった
と呼ばれています

阿那律尊者は
お釈迦様の入滅を悲しむ
者たちをを慰めました




帝釈天四天王
帝釈天は
仏教の守護神であり
天部、十二天の一尊です

四天王は
帝釈天に仕える
仏教の四人の守護神です

東方の持国天
西方の広目天
南方の増長天
北方の多聞天(毘沙門天)

北方を守護する多聞天は
鎧姿で描かれます
そして
お釈迦様の頭の方角に
描かれます
これにより
頭北面西右脇臥
お釈迦様が北枕であることを
示しています


三面六臂で赤色(または青黒色)の鬼神
阿修羅
太陽や月を手に取り
光を遮る(日食・月食)阿修羅の
両手には
白い玉(太陽)と赤い玉(月)が
収められています


龍が巻き付いた2人の人物
八大龍王 龍の神様です
長(おさ)である難陀龍王
その弟の跋難陀龍王



獅子などの動物の冠を被っている人
乾闥婆



象の冠を被っている人
緊那羅



鳥の冠を被っている人
迦樓羅



蛇の冠を被っている人
摩睺羅伽



双髻の童子
迦葉童子



医者
耆婆



仁王様
赤い肌をした二体は
仏教の守護神
お仁王様です

寺院の山門に配されるように
執金剛神(金剛力士)
密迹金剛神(密迹力士)
姿で 描かれています



速疾鬼
お仁王様の近くにいる
緑色をした鬼は
速疾鬼(ヤクシャ)です

速疾鬼は
お釈迦様の歯を盗みましたが
韋駄天さんに捕まりました

後に 改心して
仏教の守護神となりました



烏枢沙摩(うすさま)明王
烈火をもって不浄を浄化する
火神の神様
厠の神として信仰されています
幾つかパターンがありますが
1つのお顔に3つの目があり
4本ある手に
宝剣、羂索(ひも罠)
三鈷杵、棒のいずれかを
保持されています



頭に龍が描かれ 供物をもった人
善女竜王
男神として表現されることも多いのですが
八大龍王の一尊娑伽羅龍王の三女です
.
法華経では8歳の龍女として登場し
一瞬のうちに覚りを得て
成仏された様子が描かれています
.
出家してない在家でも
女性でも
8歳の子供でも
人間でなくても
悟れると
大乗仏教は説いています



羅刹



鬼神
夜叉



様々な動物
様々な動物が描かれています

一説には
十二支の動物という話がありますが
十二支は 古代中国発祥なので
後世の創作かと思われます


白い象
白い象が描かれることが
珍しくありません

インドでは
象は動物の王とされている他

象の頭で 身体は人の姿の
ガネーシャという
ヒンズー教の神もいます

ちなみに
ガネーシャという神様は
のちに仏教に取り入れられ
歓喜天(聖天)という
仏法の守護神になりました


仏教三大聖樹

お釈迦様は
日本の沙羅の木のもとで
入滅されました

そのため
沙羅の樹(さらのき)
三大聖樹とされています

あとの2つは
以下のとおりです

無憂樹(むうじゅ)
阿輪迦の木
摩耶婦人が この木の枝に手を触れて
産気づかれ お釈迦様が誕生したので
.
印度菩提樹(いんどぼだいじゅ)
天竺菩提樹
この木の下で悟りを開かれたので


ちなみに
沙羅の樹は
インドの中・北部から
ヒマラヤ地方にかけての
温かい地域で分布しています

耐寒性が弱いため
日本で育つのは大変難しいことから
日本では
ナツツバキを沙羅双樹と呼んでいます



仏舎利

お釈迦様と縁のあった諸国で
分けられたという
お釈迦様の遺骨や遺灰は
日本にもあります

各寺院にも仏舎利が祀られている中
考古学的に裏付けされた仏舎利もあります

それは
名古屋の覺王山 日泰寺の仏舎利です

詳細は
日泰寺のサイトを御覧ください

日泰寺は
明治37年(1904)に 
釈迦様の御真骨を
奉安するために建立された
日本で唯一の宗派を超えた寺院です



その他にも
第二次世界大戦後に
インドのネルー首相から送られた仏舎利として
青森市の三内霊園
 金沢市の金沢仏舎利塔
御殿場市の平和公園
姫路市の名古山霊苑
広島市の二葉山平和塔
熊本市花岡山
などがあります


卒塔婆(そとば)

.
ストゥーパ(荼毘塔)とは
仏舎利を安置し
供養するための建造物を言います
.
卒塔婆(そとば)
塔婆(とうば)
塔(とう)
などとも呼ばれます

日本で卒塔婆というと
故人を供養するために用いる
木の板を指しますが
卒塔婆は
ストゥーパ(荼毘塔)を模したモノです

卒塔婆の写真


涅槃会の日

南伝仏教では
降誕会・成道会・涅槃会が
同じ月の同じ日に起こったとされ
4月(または5月)の
ウェーサーカ月の満月を中心にして
ウェーサク祭が行われています

日本では
涅槃会は 陰暦2月15日
とされてきましたが
明治時代に
太陽暦が採用されたこともあって
太陽暦の2月15日に
涅槃会が行う寺院が多くなっています
※陰暦で行われているお寺もあります

涅槃会

涅槃会が有名なお寺を
いくつか上げます

金剛峯寺
国宝の涅槃図

東福寺
猫が描かれている涅槃図

泉涌寺
日本最大の涅槃図

西陣の本法寺
長谷川等伯の涅槃図

他にも
様々な涅槃図がありますので
機会があれば
訪れてみてください




禅寺 大蔵院の写真

般若心経
大悲呪
昔の本堂の様子と 新本堂を再建する様子

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