興禅大燈国師遺誡 現代語訳
こうぜん だいとうこくし ゆいかい
興禅 大燈国師 遺誡
興禅大燈国師遺誡は
大燈国師(だいとうこくし)の号をもつ
宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師
が遺された誡(カイ:いましめの言葉)です
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宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師
宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師
(1283年1月7日 – 1338年1月13日)は
鎌倉末~室町時代にかけて活躍された
臨済宗の禅僧です
一般に
大燈国師(だいとうこくし)という
勅諡号(ちょくしごう)で知られています
大燈国師の禅は
正面より極みを打ち出し 厳格を究め
大燈禅とも呼ばれます
室町時代の
とんち話で有名な一休宗純禅師や
江戸時代に
臨済宗を中興された白隠禅師は
大燈国師を尊崇し
大燈国師の言葉や姿を
その書や画で 表しています
大燈国師上堂語(一休宗純筆)
大応・大燈・関山像(白隠慧鶴筆)
こうぜん だいとうこくし ゆいかい
興禅 大燈国師 遺戒
汝(なんじ)ら 諸人(しょにん)
君たち 多くの人々よ
この山中(さんちゅう)に
来(き)たって
この山の中に
来ているのは
道(どう)の為(ため)に
頭(こうべ)をあつむ
仏道のため
寄り集まっている
衣食(えじき)の為(ため)に
すること莫(なか)れ
衣食を得る(生活の)為に
集まるな
肩(かた)あって
着(き)ずということ無く
肩があるから
着ないということは無く
口(くち)あって
食(く)らわずということなし
口が有るから
食べないということは無い
只(ただ) 須(すべか)らく
十二時中(じゅうにじちゅう)
ただ そうすべきコトとして
一日中
無理会(むりえ)の処(ところ)に
向(むか)って、
分別や理解を越えた境地に
向かい
究(きわ)め来(きた)り
究(きわ)め去(さ)るべし
究め来て
究め去るべきだ
光陰(こういん) 箭(や)の如(ごと)し
月日が過ぎるのは 矢のように速い
慎(つつし)んで
雑(ぞう)用心すること勿(なか)れ
うやうやしく 事をなし
用心(心配り)を 雑にするな
看取(かんしゅ)せよ
看取(かんしゅ)せよ
見定めよ
見定めよ
老僧(ろうそう)行脚(あんぎゃ)の後(のち)
老僧(大燈国師)が 行脚した(没)後に
あるいは 寺門(じもん)繁興(はんこう)
あるいは 寺が繁栄し
仏閣(ぶっかく)経巻(きょうかん)
金銀(きんぎん)を鏤(ちりば)め
寺の建物や経文の巻物に
金銀をちりばめ
多衆(たしゅう) 閙熱(にょうねつ)
多くの人が集まり 騒がしく混み合う
(かもしれない)
或(ある)いは
誦経(じゅきょう) 諷咒(ふうじゅ)
あるいは
経文(きょうもん)や
偈頌(げじゅ)を暗唱し
長坐(ちょうざ) 不臥(ふが)
長く坐禅し 横にならず
一食卯斎(いちじき ぼうさい)
食事は朝に一食だけ
六時行道(ろくじ ぎょうどう)
一日に六度、修行を行う
(かもしれない)
たとい恁麼(いんも)に
し去(さ)るといえども
たとえ
このように 行い尽くしても
仏祖(ぶっそ)不伝(ふでん)の
妙道(みょうどう)を以(もっ)て
仏祖でも伝えられない
妙道(真実の道)を
胸間(きょうかん)に
掛在(かざい)せずんば
心の中に
掛けなければ
忽(たちま)ち
因果(いんが)を 撥無(はつむ)し
たちまち
因果が 排除され
真風(しんぷう) 地(ち)に堕(お)つ
真風が 地に墜ちてしまう
みなこれ
邪魔(じゃま)の種族(しゅぞく)なり
これらは皆
(修行をさまたげる)邪魔の仲間である
老僧(ろうそう) 世(よ)を去(さ)ること
久(ひさ)しくとも
老僧(大燈国師)が 世を去り
長い時間が過ぎたとしても
児孫(じそん)と 称(しょう)することを
許(ゆる)さじ
(法脈を継いだ)
子孫と名乗ることを 許さない
或(ある)いは 一人(いちにん)あり
あるいは 一人あり
野外(やがい)に 綿絶(めんぜつ)し
野外に 長い間(人々から)隔絶し
一把茅底(いっぱぼうてい)
折脚鐺(せっきゃくしょう)内(ない)に
小さなあばら屋で
壊れた鍋の内に
野菜根(やさいこん)を煮(に)て喫して
日(ひ)を過(すご)すとも、
野菜根を煮て 食べて
日を過ごすとも
専一(せんいつ)に 己事(こじ)を
究明(きゅうめい)する底(てい)は
他をかえりみずに 己(おのれ)の事を
究明しようとする 心根の者は
老僧(ろうそう)と
日日(にちにち) 相見(しょうけん)
老僧(大燈国師)と
毎日 顔を合わせているようなもので
報恩底(ほうおんてい)の人也(ひとなり)
恩返しの心根がある人である
誰(だれ)か
敢(あ)えて 軽忽(きょうこつ)せんや
誰が
あえて 軽々しく見るだろうか
勉旃(べんせん) 勉旃(べんせん)
これを勉めよ これを勉めよ
明石の禅寺 大蔵院
経典 記事一覧
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金剛般若経
般若心経(大本・小本)梵語
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観音経
延命十句観音経
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大悲呪
開甘露門
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消災呪
仏頂尊勝陀羅尼
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坐禅儀
証道歌
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中峰和尚座右の銘
興禅大燈国師遺戒
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白隠禅師坐禅和讃.
雲水和讃
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宗峰妙超 禅師
(大燈 国師)年表
播磨浦上荘(兵庫県たつの市)の豪族
浦上一国(掃部入道覚性)の子として
生まれる
※母親は 後に播磨の守護大名となる
赤松則村(円心)の姉
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※後年 禅師の生誕地に
大徳寺が寺を建立
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国道2号線の南沿い
西国街道の北にある
宝林寺がコレに当たる
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11歳の時
書写山 圓教寺に登り
戒信律師の元で、天台宗を学ぶ
禅にめざめ、高峰顕日や
南浦紹明(大応国師)に参禅
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1307年
南浦紹明(大応国師)から印可を得 嗣法
京都 東山の雲居(うんご)庵にて
乞食(托鉢)行を10年以上行う
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1315年(1319年とも)
叔父 赤松則村(円心)の帰依を受け
洛北 紫野の地に
大徳寺の起源となる小さな堂を建立
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※後、大徳寺は花園法皇、
後醍醐天皇から勅願寺とされた
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※後年 大徳寺は
とんち話で有名な”一休宗純和尚”や
たくあん漬けで有名な沢庵宗彭和尚ら
名僧を 排出
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1325年
後醍醐天皇の命で行われた
正中の宗論(天台宗・真言宗との論戦)で
兄弟子通翁鏡円(南禅寺)の侍者として
論戦に臨み 活躍
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1326年
正中の宗論の論戦相手だった
玄慧法印から支援を受ける
大徳寺に諸堂伽藍が揃いだす
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1335年
興禅大燈国師遺戒を発表
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1337年
重体となる
花園法皇に後任者として
弟子の関山慧玄禅師を推挙
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1337年
花園法皇がその離宮を寺にするにあたり
これに正法山 妙心寺と命名
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1337年12月22日
遷化
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※妙心寺は 1337年を開創の年とし
大燈国師の遺言通り
関山慧玄禅師を開山とした
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遷化後
花園天皇から 興禅大燈国師
後醍醐天皇から 正燈高照国師
の国師号を下賜された
能書家としても有名で、その墨蹟いくつかは国の重要文化財に指定されています(2022年時点)
南浦紹明(大応国師)
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宗峰妙超(大灯国師)
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関山慧玄(無相大師)
と続く法系を
応灯関(おうとうかん)の一流と呼びます
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日本の臨済宗の法脈は
応灯関の法系です
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そのため
全国の臨済宗 専門道場では
興禅大燈国師遺誡が 読誦されています
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